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【第四次川中島の戦い】
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さすがに啄木鳥の戦法はない 別働隊の目的は別
ここで妻女山布陣説、なかった説のどちらの説であっても、明確に否定できるのが武田方の
【啄木鳥(きつつき)の戦法】
です。
山本勘助の献策によるものとされていて、この辺からもちょっと怪しげな雰囲気をかもし出していますが、それだけで否定するつもりはありません。
すでに様々なところで指摘されているように、本隊よりも多い1万人規模の兵士を夜陰とはいえ切り立った崖のような山の尾根を伝わらせて妻女山を攻撃させることは物理的に困難です。
また、こういう奇策は劣勢側が少数精鋭でやるものです。
しかし武田の別働隊が、啄木鳥の戦法という奇襲目的ではなかったと考えると、少し現実味を帯びてきます。
信玄の海津城後詰めが成功したこの時点で、次に「謙信はどのルートから撤退するか?」もしくは「撤退させたいか?」ということに関心が移ります。
それが分かれば撤退中の上杉方を捕捉せん滅、もしくは妻女山を包囲という戦略も立てられます。
予測できる謙信の撤退ルートは川中島を縦断する北国街道か、松代方面、海津城の正面を通過する北国脇街道のどちらかです。
このうち絶対に通らせたくないのが松代方面の脇街道を抜けるルートでした。
武田軍は妻女山付近に付け城を設置せねばならない事情
第三次川中島の戦いの時は、海津城の前身・香坂城に対して謙信が城下の街ごと放火しています。
仮に謙信が脇街道を通るようであれば、同じような被害を受けることは十分予想される。
ですので、その防衛のため妻女山付近に軍勢を送り出し、付け城戦術を行う必要があります。
妻女山布陣といっても謙信は野宿をしているわけではありません。
本陣を構える際は、周辺に堀や土塁を構築し、櫓や小屋も建てます。妻女山も長い滞陣の結果、既に城郭化されています。
これに対して、武田方が鞍骨城やその山のふもと、北国脇街道に通じる道に軍を布陣させるのは当然の戦術。
おそらくこれらの防衛部隊が、いつのまにか「啄木鳥の戦法」という荒唐無稽な戦法にすり替わってしまったのではないでしょうか。
もしくは妻女山から降りて北国街道に向かった上杉謙信を追って、急いで海津城を出陣した部隊の一部、妻女山付近の渡しから渡河した部隊を啄木鳥部隊とした可能性もあります。
海津城から川中島方面に出るにはどこかで千曲川を渡らなければいけません。万を超える軍勢を一ヶ所の渡しから渡河させるには非効率です。
海津城そのものが「馬出」だと言いましたが、城から出る軍勢を「馬出」から軍勢を出すように二手に分け、数カ所ある渡しから渡河させれば最も効率良く川中島方面に軍を出撃させることができます。
海津城より出陣した一方の部隊、南側より「十二ヶ瀬(じゅうにかせ)」の渡しに向かった部隊こそが「啄木鳥隊」だった可能性があります。
そして十二ヶ瀬で上杉の殿軍(しんがり)による待ち伏せ攻撃(甘粕近江守の部隊)が予想外に強力で、川中島での合流に遅れてしまったと考えると、かなり現実的です。
このように武田信玄ほどの戦上手が決戦を前に優勢な軍勢を二手に分けるという愚策をおかしてしまったことに何らかの理由があるとすれば、そもそも海津城から千曲川を渡るには大部隊が1か所で短時間に渡河させるのは困難だということを忘れてはいけません。
この海津城の致命的な欠点が認識されたためか。
第4回の激戦以降、武田信玄は半ば海津城を捨てて、より北方の長沼城の大規模な増改築に力を入れ、北信濃の中心的な城にしています。
やはり海津城は大きいだけのポンコツであり、局地的な戦闘には全く不向きな「デス・スター」だったのでしょう。
謙信は信玄が出陣するのを知ってから移動した?
上杉謙信は海津城から炊煙が上がるのを見て、奇襲を察知したとされています。
しかし、これも怪しいですね。
後詰めを成功されてしまった謙信が、その時点で考えるべき戦略は「最小限の損害で撤退」です。
敵地で24時間いつでも攻撃される状況で10日間も過ごし、相手の奇襲に限らず正攻法の攻撃や包囲に常に警戒している状況なので、むしろ相手がゆるんだ隙、最も撤退しやすい時期を狙っていたとする方が現実的ではないでしょうか。
武田方にしてみれば、毎日でも炊煙を上げて相手にプレッシャーを与え続けた方がいいくらいです。
しかし、謙信はなんだかんだで妻女山からの撤退に成功しています。
夜中に妻女山を降り、千曲川を渡って北国街道方面へ進軍。
通常、弱点とされる自陣の右翼を武田方に見せながらの撤退ですので、かなり警戒していたことでしょう。
武田本隊と遭遇した時に、既に上杉方は陣形が整っていたと云われていますが、武田の支城ネットワークのすき間を抜けるように敵地を撤退中と考えれば、ひたすら警戒していますので、整っているのはむしろ当然のことです。
また、上杉謙信の感状が少ないので激戦はなかったんじゃないかという説もありますが、上杉家の戦法には「敵に一撃を与えて素早く退く」というのがあります。
その際は敵の首を取らないというルールも定めています。
この川中島の激戦でも、同様の戦術から敵の首を取らずに戦っていたので激戦の割には上杉方の感状が少なかったと考えられます。
むしろ武田軍が監視していたと考える方が自然
ではなぜ、武田軍は川中島へ出陣していったのでしょうか。
これも考えれば考えるほどナゾなのですが、撤退中の上杉謙信を犀川渡河あたりで捕捉して手痛い一撃を加えるといった狙いがあったことが考えられます。
ただし、これには上杉謙信の撤退時期とルートを事前にキャッチしていなければできません。
そうなると謙信の妻女山撤退をかなり早い時間につかんでいたと考えられます。
広く伝えられているような「謙信が炊煙を見て武田方の動きを察知した」とは全く逆で、鞍骨城や妻女山方面に包囲部隊を配置していれば、むしろ武田方が謙信撤退の動きを察知して動いたと考える方が自然です。
しかしなぜ武田信玄が城から打って出てきたのか分かりません。
血気にはやる家臣団との評定が決戦に傾いてしまったのでしょうか。
謙信が兵糧尽きてボロボロになって善光寺に退却してるというガセをつかまされてしまったのでしょうか。
いずれか不明ですが、武田信玄は、海津城に残っている部隊で謙信の撤退をせん滅までは行かないまでも、右側面から、いやらしく邪魔しようと企てたのは間違いありません。
しかし、準備が整う前に謙信の部隊に遭遇するというアンラッキーに見舞われてしまいます。
慣れないことはしない――これに限りますね。
激戦は偶然か、狙い通りか?
一方の上杉謙信は、思い描いた作戦通りに武田本隊を補足し、決戦を挑むことに成功したのでしょうか。
前回から決戦を望んでいた上杉謙信にとって撤退中であっても武田本隊を捕捉できればしめたものです。
多少の陣形は崩してでも戦いは挑んだことでしょう。
しかし「謙信の留守を狙え」でお馴染みの武田信玄にとっては、できれば正面衝突は避けたかった一戦だったでしょう。
結果だけを見れば、上杉謙信は激戦の中、退路を断たれ、犀川を渡って善光寺方面に逃げ帰るのも必死。
読み通りの万全の態勢でなかったことが分かります。
上杉側からみてもこの戦闘は、戦略的におびき出したのではなく偶発的な衝突だったことは間違いないでしょう。
結局どっちが勝ったの?勝因は?え?海津城??
武田方は前半に多数の将兵のみならず譜代クラスの武将が討ち死にしたものの、結果的に川中島の防衛に成功しています。
この成功には海津城築城が大いに影響しています。
え? 城マニアだからって無理やり城をねじ込もうとしてるって? さっきまでポンコツだと言ってたのに!
すみません。ポンコツは言い過ぎました。
実際、海津城築城にあたって、千曲川や犀川周辺の土地の検分、また渡河地点の確認など念入りにやっています。
これは犀川渡河で善光寺方面に逃げ帰る上杉方に対して、春日虎綱が犀川の渡しにいち早く回り込んで上杉方を包囲できた要因にもなっています。
また長時間にも及ぶ激闘を戦い抜くには武器や物資の補充も必要です。
武田の分隊が間に合ったというのが最大の勝因ではあるでしょうが、後続部隊が間に合ったのは戦が始まって2時間後のことです。
両軍はそれからさらに2時間以上の激戦を続けています。
このような長時間の合戦では背後に巨大な基地を持つ方が物理的にも心理的にも優位です。
大きいだけのポンコツとまで言ってしまいましたが、海津城から次々と繰り出す補給があってこそ長時間の戦も可能でした。
上杉謙信にとって長期戦が不利なのは分かっていたでしょうが、後続隊が来るまでに短期決戦で叩いて退くことができなかったのが最大の誤算だったのかもしれません。
こうして第四次川中島の合戦は双方に多数の死傷者を出しながらも武田信玄が川中島を死守。
そしてその後の政治的支配を磐石のものとしていきます。
これはもう海津城築城の勝利という他はありませんね。
築城バンザイ!!
お城バンザイ!!
「諸説」バンザイ!!
「そんなことより駿河がほしい」by信玄
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筆者:R.Fujise(お城野郎)
◆同著者その他の記事は→【お城野郎!】
日本城郭保全協会 研究ユニットリーダー(メンバー1人)。
現存十二天守からフェイクな城までハイパーポジティブシンキングで日本各地のお城を紹介。
特技は妄想力を発動することにより現代に城郭を再現できること(ただし脳内に限る)。