信長公記 武田・上杉家

【織田vs武田】岩村城の戦いで秋山&おつやが磔死 信長公記130&131話

天正三年(1575年)秋。

朝廷から「右近衛大将」という官職を得て、順風満帆かに見えた上洛中の織田信長

そのもとへ、急な報せが届きました。

「岩村城(恵那市)を攻撃している我が軍の背後をつこうとして、武田勝頼が進軍しております!」

岩村城とは東美濃にある【織田vs武田】の最前線。

武田家攻略のため織田信忠が攻め込んでいたところ、その後詰め(救援)に勝頼がやってくるというのです。

そもそも岩村城は信長の叔母にあたるおつやの方が城主を務めていたところで、その後、武田軍の秋山虎繁(秋山信友)に陥落されたという経緯があり、今回の戦いを含めてまるでドラマのような展開を迎えます。

一体、それはどんな内容だったのか?

『信長公記』の記述だけでは経緯がわかりにくいので、他の文献も交えながら【岩村城の戦い】を追っていきましょう。

 

元亀3年(1572年)夏

東美濃の武将で、岩村城主の遠山景任が亡くなりました。

彼は織田・武田・斎藤氏などに挟まれた地勢の中で、なんとか半独立状態を保っていた器用な人物。

信長の父・織田信秀が台頭してきたあたりからは、やや織田家寄りの態度をとっており、信長の叔母・おつやの方を正室に迎えました。

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おつやの方は、美形が多いとされる織田家の中にあっても、とりわけ美しいとされた女性です。

しかし、何かの業を背負わされたかのような悲運の生涯を辿ります。

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遠山景任が亡くなったとき、おつやの方との間には男児がいなかったので、信長は、織田信広(信長の兄)と河尻秀隆を送って岩村城を押さえ、自身の五男・御坊丸(織田勝長)を遠山家の養子にするため送りました。

これが信玄を激怒させた。

そもそも織田と武田の国境沿いにある岩村城(遠山家)は中立的立場の緩衝地帯です。それを、どちらか片方が支配下に置いたらどうなるか?

信長のやった行為は「信玄さーん、今まで中立だったけどこれからは織田の支配にしますんで、よろしく♪」というように喧嘩を売ったも同然だったんですね。

もちろん黙っている信玄ではありません。

他ならぬ遠山一族も信長の支配強化に反発し、武田家へなびきました。

 

元亀3年(1572年)秋

この年、武田信玄が西上作戦を開始します。

信玄は軍を分け、おつやの方が籠もる岩村城には秋山虎繁を派遣。

秋山虎繁/wikipediaより引用

秋山軍に囲まれ、とても守りきれないと判断したおつやの方は、

「私が虎繁殿と結婚する(=人質になる)ので、家臣たちの命は助けてほしい」

と交渉しました。

虎繁がこれを受け入れ、岩村城は武田軍のものになります。

※虎繁が結婚を迫り、おつやの方が仕方なく受け入れたという説もあります

五段石垣で知られる岩村城跡

信長は、この件については仕方ないと不問にするしかありません。

この時点での信長は、足利義昭浅井長政朝倉義景、長島一向一揆など周囲を敵に囲まれ、とてもじゃないけど岩村含めた東美濃にまで手が回らない。そんな状態だったのです。

 

元亀4年(1573年)

2月、虎繁とおつやの方の祝言が挙げられ(挙げていない説も)、御坊丸は人質として甲府へ送られました。

信長の子が、信玄のもとで暮らすという中々スリリングな展開です。

その半月後ぐらいから、岩村城周辺で織田と武田の衝突が散発するようになります。

しかし同年4月に信玄が病死したため、しばらく岩村城付近の情勢は静かになりました。

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