信長公記 武田・上杉家

【織田vs武田】岩村城の戦いで秋山&おつやが磔死 信長公記130&131話

こちらは2ページ目になります。
1ページ目から読む場合は
岩村城の戦い
をクリックお願いします。

 

天正2年(1574年)

明知城(恵那市)を巡って織田・武田が争い、織田軍が出遅れたため、城は武田軍の手に落ちました。

信長が、明知城の周辺に河尻秀隆や池田恒興を残して引き上げたのは、近隣にあった岩村城やその周辺の監視を信頼できる者たちに受け持たせたかったからでしょう。

河尻秀隆/wikipediaより引用

河尻秀隆は信長の父・信秀時代からの老臣。

池田恒興は信長の乳兄弟ですから、信長にとって特に親しく、信頼の厚い者たちです。

同時に、このエリアがいかに重視されていたか、よくわかりますね。

 

天正3年(1575年)

天正3年5月【長篠の戦い】が勃発。

織田・徳川軍が武田軍に壊滅的な打撃を与えることに成功しました。

長篠の戦い
長篠の戦いで信長の戦術眼が鬼当たり!勝因は鉄砲ではなく天然の要害

続きを見る

これにより、武田側の拠点を攻略する下準備ができ、主に信長の嫡子・織田信忠がこの方面を担当することになります。

立地的に岩村城が取れれば、甲斐攻めの大きな足がかりになります。

逆に、ここを落としておかなければ美濃からの進軍が難しく、遠回りを余儀なくされる――ゆえに岩村城の攻略に取り掛かっていたところ、武田勝頼が挙兵し、冒頭の報せとなったのです。

武田勝頼
武田勝頼は最初から詰んでいた?不遇な状況で武田家を継いだ生涯37年

続きを見る

この勝頼進軍の報を受けた岩村城の武田軍は、いったんは勇気づけられたことでしょう。信長が報せを受ける前の11月10日、水精山(すいしょうざん)に陣を張っていた織田軍に夜襲を仕掛けています。

織田軍の包囲を打ち破り、進軍してくる武田勝頼との合流を試みたと思われます。

しかし、河尻秀隆らが応戦したため、武田軍にとっては失敗で終了しました。

京都の信長が勝頼出馬の知らせを聞いたのは、それから4日後の11月14日夜。

一報を受け取るやいなや、直ちに京都を出発し、15日には岐阜へ戻っています。この神速ぶりはさすがといったところですね。

 

大将格21人、武士1,100人余りを切り捨て

岩村城からの夜襲をしのいだ信忠軍は、今度は攻めかかってきた武田軍へ反撃を開始しました。

岩村城の将兵たちは撤退して城を目指し、場内へ戻れなかった者たちは付近の山中へ逃亡。織田軍の捜索・追撃によって大将格21人、武士1,100人余りが発見され、切り捨てられたといいます。

援軍も望めず、頼みの綱の奇襲は失敗――。

こうなると不利な籠城軍に取れる選択肢はそう多くありません。

徹底抗戦して最後の一兵まで戦うか、何らかの条件と引き換えに将兵の命を助けてもらうか……。

このときの岩村城は後者を選びました。

信忠の家臣・塚本小大膳を介して、降伏と引き換えに城内の者たちの助命を嘆願してきたのです。

塚本小大膳は、信長の馬廻りから信忠の家臣になった人で、主に東美濃で活動していたため岩村城の武田軍にもある程度知られていたと思われます。

織田軍は小大膳の補佐・目付として塙伝三郎をつけ、話を進めました。

伝三郎については、あまりよくわかっていません。

後に【本能寺の変】の際も信忠に従って討死しているので「身分はあまり高くないが、信忠に信頼されていた家臣の一人」というところでしょうか。

本能寺の変
なぜ光秀は信長を裏切ったか「本能寺の変」諸説検証で浮かぶ有力説は

続きを見る

こうして【岩村城の戦い】は信忠軍の完勝に終わるのです。

問題は二人の処分でしょう。

※続きは【次のページへ】をclick!

次のページへ >



-信長公記, 武田・上杉家

×