やはり2017年大河ドラマの印象から井伊直虎がその候補となりましょうか。
しかし女城主は彼女だけではありません。
たとえば織田信長の叔母でありながら、城を守るために武田家の重臣に身をささげ、そして無残にも信長に処刑された女性。
岩村城(岐阜県)主・おつやの方(お直の方)です。
織田家一族は、信長の妹・お市の方や弟・織田秀孝など、美形を多く輩出する一族として知られ、おつやの方もまた絶世の美女との評。
ただし、四度の結婚で次々に夫が戦死するなど、その道程は決して平坦なものではありませんでした。
彼女は、無情な戦乱に人生を弄ばれた悲劇の女性なのか。
それとも運命に立ち向かい自らの道を切り開いた強き女なのか。
武田家の秋山虎繁に降り、最後は長篠の戦い後に織田軍に攻められ、1575年12月23日(天正3年11月21日)に亡くなった、おつやの方の生涯を見て参りましょう。
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信長の年下叔母・おつやの方
おつやの方は、愛知県愛西市の勝幡城(信長も生誕した城)で生まれました。
父は織田信定。
信長の祖父にあたる人物です。
信定の末娘として生まれた彼女の生年はハッキリせず、信定が1538年に死んでいることから、その前後でしょう。
1534年生まれの信長にとって、彼女は叔母ながら歳下になるんですね。
おつやの方は最終的に、岐阜県恵那市・岩村城の遠山景任(とおやまかげとう)のところへ嫁ぎ、さらに敵の秋山虎繁(秋山信友)と結ばれるのですが、岩村城へ赴く前に2度の結婚しておりました。
一度目のお相手は、文日比野清実(ひびのきよざね)という結城(岐阜県安八町)の城主です。
美濃・斉藤龍興の重臣で、1561年(永禄4年)【森辺の戦い】で戦死していました。
彼女が何歳で嫁いだかはつまびらかではありませんが、おつやの方は18歳で最初の夫を戦で亡くしているのです。
二度目の結婚は、信長に仕える武将でした。
甥・信長による政略結婚で、相手は不明。ほどなくして戦死しております。
再び岐阜に戻った後の1562年、今度は美濃の岩村城へ三度目の政略結婚で嫁いできました。
相手は前述の通り遠山景任です。
岩村城は、甲斐の武田に対する前線基地でしたが、彼女が嫁いだ当時、織田と武田は同盟関係にありました。
子供が出来なかったため、後の岩村城 主として織田信長の五男・五坊丸を養子として迎え入れ、彼女は養母として育てることになります。
五坊丸は6~8才の幼い男の子ですから、きっと実の母のように 可愛がって育てていたのではないかと思います。
夫を亡くすも女城主として残る
1570年(元亀2年)武田の家臣・秋山虎繁(秋山信友)が武田信玄の命を受けて岩村へ侵攻、【上村合戦】となりました。
その時の戦いが元で、景任は病死。
それまでのように夫が討死した後は、岐阜へ戻ることも出来たのでしょうが、お直の方は城に残る道を選びました。
五坊丸の母としての責任感と、景任の生前より夫の留守を守る姿が領民や城兵にも信頼されていたことから、岩村への愛着や城を守りたいという闘志が芽生えていたのではないかと思います。
また、三度の政略結婚という時流に振り回される人生を振り返り、自分の進む道を自分で選びたい――そんな切望があったのではないかとも思います。
同盟や破棄を繰り返す戦国の世において、女性がその都度出戻り、再び別の男性の元へ嫁いでいくことはそう珍しいものではありません。
例えば家康の母・於大の方も家康を産んですぐに実家の水野家が松平家と対立関係になり、実家へ戻されています。
おつやの方は、その道を選ばず「女城主」となったのです。
そしてしばらくは、城主として母としての仕事をこなし、岩村も平和な時が過ぎていきました。
しかし……。
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