斎藤龍興イメージイラスト

戦国FAQ

斎藤龍興は本当に“バカ殿”だったのか?15歳で美濃を継いだ若き国主の実像

大河ドラマ『豊臣兄弟』の序盤で最も愚かな武将といえば?

やはり濱田龍臣さんが演じていた斎藤龍興でしょう。

織田と対立する美濃斎藤氏の当主であり、稲葉山城の城主でもあった龍興は、日頃から家臣たちに無理難題を吹っかけ、ついに我慢しきれなくなった美濃三人衆に裏切られました。

そこからはあっという間で、竹中半兵衛(菅田将暉さん)に「また逃げるのですか」と煽られながら、情けない後ろ姿で稲葉山城から逃げ出し、船で伊勢長島(三重県)へ。

『ったく、これだからダメ上司ってのは最悪だよな……』

視聴者の中にはそんな風に思われた方も多いかも知れませんが、果たしてあの姿は史実に基づいたものなのか? 斎藤龍興という人物を適切に描いているのか?

斎藤龍興イメージ

答えはNO。

実際は、主に江戸時代に成立した軍記物(物語)の影響でしょう。

では、どんな影響だったのか、まずは斎藤龍興が当主になった経緯から振り返ります。

 

15歳で家督を継いだ斎藤龍興

斎藤龍興の父である斎藤義龍は、かなり優秀な戦国大名でした。

義龍は弘治二年(1556年)、長良川の戦いで実父の斎藤道三を討ち、美濃の実権を完全に掌握すると、六人の側近らと政治・外交・軍事のシステム刷新に着手。

宗教問題では不手際もありましたが、その他は概ね首尾よく回っており、織田信長からの攻撃も防いでいます。

逆に、尾張国内の混乱につけこみ、信長周辺を撹乱することもありました。

斎藤義龍の肖像画

斎藤義龍/wikimedia commons

そんな斎藤義龍が永禄四年(1561年)5月、33歳の若さで急死してから、美濃の運命は一変する……と思いきや、義龍が構築した政治軍事体制はその死後も機能しており、龍興に代替わりしてからも信長は攻めあぐねていました。

家督を継いだ龍興の年齢はまだ15歳(あるいは14歳)です。

果たしてこの年齢で国政を指揮できる人物はどれだけいるのか。

龍興は周囲の側近たちに助けられながらも永禄四年、永禄五年、永禄六年……と織田方に美濃の攻略は許さず月日は過ぎていきます。

ただ、実際は周囲の不満もジワジワと積もっていたのでしょう。

その限界点に達したのが永禄七(1564年)2月、竹中半兵衛による「稲葉山城乗っ取り事件」です。

 


半兵衛の子は事件を記していない

竹中半兵衛と舅の安藤守就が、わずかな手勢で斎藤龍興や側近らを追い出し、稲葉山城を占拠したこの事件。

半兵衛が、龍興の悪政を正すために立ち上がった!

そんな風に描かれがちですが、実際の動機などは不明。

竹中半兵衛の肖像画

竹中半兵衛/wikimedia commons

むしろ半兵衛の子孫としては隠したい出来事だったのか。息子の竹中重門が記した豊臣秀吉の伝記『豊鑑(とよかがみ)』の中で、この事件については触れられていません。

龍興に明らかな悪政があれば、半兵衛の快挙として子孫が誇っても良さそうなのに、そうとは言えない。

『豊鑑』が記された寛永八年(1631年)の江戸時代では「主君を追い出して城を乗っ取るなど不忠の極み!」と糾弾されるリスクの方が高かったのでしょう。

ともかく息子としては堂々と誇れることではなかった。

ではなぜ今日では「さすが半兵衛、天才軍師!」と称えられる要因となったのか。

主に、江戸時代に成立した軍記物や逸話の影響でした。

 

数々の物語で悪辣な龍興像

織田信長や豊臣秀吉にはじまり、その流れで登場する竹中半兵衛を称える――。

そんな物語は江戸時代に数多く出版されました。

例えば寛永二年(1625年)に小瀬甫庵が編集した『太閤記』では、斎藤龍興がイエスマンばかりを重用し、美濃三人衆安藤守就稲葉一鉄氏家卜全)らを排除する姿が描かれています。

半兵衛の乗っ取り事件についても龍興の行動が酷かったからとなっている。

後に織田信長が美濃を制して天下人となっているため、どうしたって信長やその腹心である秀吉や半兵衛を悪くは書かない。

そもそも秀吉を持ち上げるための物語ですから当たり前ではありますが、それで割りを食ったのが龍興という構図が浮かび上がります。

豊臣秀吉の肖像画

豊臣秀吉/wikimedia commons

京都の著名な儒医・江村専斎の言葉を弟子が正徳三年(1713年)にまとめた『老人雑話』も同様。

龍興が「愚か者」だから織田信長が美濃を支配したとあります。

他にも、元禄期の『堂洞軍記(どうぼらぐんき)』では酒や色に溺れる姿が描かれ。

それ以降の成立とされる『美濃国諸旧記』でも、おごり高ぶっていた龍興が他者に耳を貸さず、重臣らの諫言も放置したため、ついには美濃三人衆らが織田方に寝返ったことになりました。

他にも同様の記述が多々あることが、木下聡氏の書籍『斎藤氏四代:人天を守護し、仏想を伝えず(→amazon)』に記されていますので、よろしければご確認ください。

 

龍興は再起を期して諸国を奔走していた

週刊誌やワイドショーなどのネタからSNSに飛び火して、最初の一報からはかけ離れた情報がどんどんひとり歩きしてしまう。

そして、もはや誰もが信じて疑わなくなる。

現代でもよく見るこの光景、江戸時代に記された斎藤龍興に関する情報も、まさしくそれに近いのではないでしょうか。

特に、竹中半兵衛の稲葉山城乗っ取り事件については、最終的に城を龍興に返しているせいでしょう。江戸時代の物語では「半兵衛に私利私欲や野心などなかった」という見解でほとんど一致しております。

しかし、彼の本心など誰にも不明であり、なんらかの名誉欲で事を起こした可能性も否定はできません。

斎藤龍興については、後世でのフォローがなかったことも影響しているのでしょう。

もしも美濃斎藤氏が龍興の代で滅びず、旗本や御家人などで江戸時代も生き残り、さらには先祖である道三・義龍・龍興の記録を残していたら?

斎藤龍興・浮世絵(落合芳幾画)

斎藤龍興・浮世絵(落合芳幾画)/wikimedia commons

その書物には、こんな記述があるかもしれません。

・齢15年にして美濃斎藤氏を引き継ぎ、日々、政務に取り組んでいた斎藤龍興だが、不忠の家臣・竹中半兵衛の名誉欲から「稲葉山城乗っ取り事件」を起こされ、以来、家中が乱れることになった

・懸命に再起を図るも、織田軍の攻撃や調略が激化し、ついには対処しきれなくなる

・しかし国を追い出されてからも龍興は再起を期して諸国を奔走していた

上記の書き方でも、史実からは逸脱しておりませんが、印象はかなり異なるでしょう。

まさに「ものは考えよう」「ものは書きよう」というやつで。

実際に、織田信長が15歳の龍興を相手に美濃攻めを本格化させてから、稲葉山城の陥落までに7年もの月日を費やしていて、単なるバカ殿ではない可能性を感じさせます。

その点につきましては、別記事「なぜ信長は美濃攻略に7年以上もかかったのか?」を併せてご覧いただければ幸いです。

◆ 戦国時代|武将・合戦・FAQをまとめた総合ガイド

◆ 『豊臣兄弟』総合ガイド|登場人物・史実・出来事を網羅


参考書籍

木下聡『斎藤氏四代:人天を守護し、仏想を伝えず』(2020年2月 ミネルヴァ書房)
横山住雄『斎藤道三と義龍・龍興 (中世武士選書29)』(2015年9月 戎光祥出版)
太田牛一/中川太古『信長公記』(2013年10月 KADOKAWA)

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BUSHOO!JAPAN(五十嵐利休)

武将ジャパン編集長・管理人。 1998年に大学卒業後、都内出版社に入社し、書籍・雑誌編集者として20年以上活動。歴史関連書籍からビジネス書まで幅広いジャンルの編集経験を持つ。 2013年、新聞記者の友人とともに歴史系ウェブメディア「武将ジャパン」を立ち上げ、以来、累計4,000本以上の全記事の編集・監修を担当。月間最高960万PVを記録するなど、日本史メディアとして長期的な実績を築いてきた。 ◆2019年10月15日放送のTBS『クイズ!オンリー1 戦国武将』に出演(※優勝はれきしクン) ◆国立国会図書館データ https://id.ndl.go.jp/auth/ndlna/001159873

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