武田信玄の肖像画

武田信玄/wikipediaより引用

戦国FAQ

なぜ信玄は躑躅ヶ崎館ではなく要害城で生まれたのか 命に関わる危機が迫っていた?

武田信玄の居館として知られる躑躅ヶ崎館(現・武田神社)。

現在では信玄ゆかりの地として知られる観光スポットであり、9~10月ともなれば山梨県の豊かな実りと共に一度は楽しみたい場所だが、もし足を運ぶなら同時に訪問したい場所がある。

躑躅ヶ崎館の背後にある要害城(要害山城・丸山城)だ。

この要害城、実は信玄が生まれたところ。

戦国武田ファンには「詰城」としてよく知られた存在であり、甲府市公式サイトにも掲載されている程だが、躑躅ヶ崎館があまりにも有名であるためか、見落としてしまう方もいるはず。

なぜ信玄は、躑躅ヶ崎館ではなく要害城で生まれたのか?

実は武田氏滅亡の危機でもあったという、当時の状況を振り返ってみよう。

 


躑躅ヶ崎館を建て甲府に拠点を移動

甲斐武田氏というと、武田信玄のもとに勇将たちが集い、非常に強固な軍団が組織されていた――そんなイメージが強いかもしれないが、かつては親兄弟や親類、あるいは国衆らとの勢力争いが頻発。

国内が統一されたのは、信玄の父である武田信虎の代になってからだった。

武田信虎の肖像画

武田信虎/wikipediaより引用

甲斐制覇を間近に控えた信虎は永正16年(1519年)12月に躑躅ヶ崎館を完成させると拠点を移し、そこを中心に作られた新都を「甲府」と名付ける。

甲府(躑躅ヶ崎館)の立地は交通の要衝にあり、商工業の面からは非常に便利なところ。

一方で、いざ敵勢力に攻められたときは防御のための「詰城(つめのしろ)」も準備されていた。

それが躑躅ヶ崎館の北側にあり、信玄が生まれた要害城である。

要害城(要害山城・丸山城)

要害城(要害山城・丸山城)

実は、西側や南側にも別の城があり、さらには各種寺院も置かれ、家臣の屋敷も配置されるなどして甲府の城下町は後に大きく発展するが、信玄が生まれた大永元年(1521年)はその居館が攻め込まれる危機にあった。

今川氏の重臣・福島氏(くしま)が侵攻してきたのだ。

 


身重の大井夫人を避難させる

今川氏というと今川義元で知られ、織田信長に討たれるまで信玄と同盟関係にあったのは有名な話。

しかし信玄の生誕時は今川氏親が当主であり、信虎とは対立関係にあった。

永正12~13年にかけての大井合戦では信虎が今川勢を撃退していたが、永正18年(1521年)2月27日、あらためて本気で武田家を滅ぼそうというような大軍でやってくる。

今川勢の総大将は福島氏。

時間をかけて穴山氏の攻略や合戦の準備を整えると、武田軍も出陣して、元号が変わった大永元年(1521年)8月28日に両軍が激突。

このときは武田勢の勝利となるが、以降、9月に入って武田軍は劣勢に立たされ、甲府盆地内の富田城(現・南アルプス市)が落城してしまった。

信玄を妊娠していた大井夫人(信虎の妻)が要害城へ避難したのはその翌日のことだ。

大井の方(武田信虎正室)の肖像画

大井の方(大井夫人・武田信虎正室)/wikipediaより引用

このとき信虎はどれだけ窮地に立たされていたのか?

 


信玄 無事に要害城で生誕

身重の妻を詰城へ移動させるほど追い詰められていた武田信虎。

本気で危機を感じていたことは、このとき戦場で死んだ場合に念仏を唱えてくれる僧侶(陣僧)を呼んだことから窺える。

戦の状況によっては、戦国最強とも謳われる武田信玄が世に出てこない可能性もあったのだろう。

そして迎えた大永元年(1521年)10月16日。

信虎率いる武田軍は飯田河原で今川勢と衝突。

わずか2000の軍勢で勝利を収めると、その約1ヶ月後、11月23日には上条河原で大将の福島氏を討ち取るなど大いなる勝利を挙げ、ついに自身の滅亡や甲府の危機を脱した。

なお、一説によると福島氏を討ち取ったのは、信玄配下の猛将として知られる原虎胤であったとも。

信玄が生まれたのはその間、大永元年(1521年)11月3日のことだ。

武田信玄の肖像画

近年、武田信玄としてよく採用される肖像画・勝頼の遺品から高野山持明院に寄進された/wikipediaより引用

福島軍に勝利したことから、信玄の幼名が「勝千代」と名付けられたともされる。

それだけ信虎が勝利に喜んだということであろう。

なお、信玄の生誕地は要害城の他に、麓の積翠寺という説もあり、今も産湯の井戸跡が残されている。

躑躅ヶ崎館や要害城をご訪問の際は、以下のマップと共にどうぞ。

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編集管理人・五十嵐利休。 1998年に大学卒業後、都内の出版社に勤務。 書籍や雑誌の編集者を務め、2013年に新聞記者の友人と武将ジャパンを立ち上げた。 月間の最高アクセス数は960万PV超。 現在は企業のオウンドメディア運用やコンサルティング業務もこなしている。

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