暦応四年(1342年)12月23日は、天龍寺船の計画が立てられた日です。
なんだかカッコイイ名前の船ですね。
ただ、この計画の始まりはあまりカッコよくないというか何と言うか……どのような目的で造られた船なのか、振り返ってみましょう。
後醍醐天皇の怨霊に悩まされた尊氏が
室町時代の始め――。
幕府をスタートさせた足利尊氏とその弟・足利直義、そしてブレーンを務めた僧侶の夢窓疎石は、新しい政権基盤を整えるため多忙な毎日を送っていました。
そんな中で、切っても切れない縁だった後醍醐天皇が吉野で亡くなった――そんな知らせが届きます。

後醍醐天皇/wikipediaより引用
後醍醐天皇と言えば、足利サイドにとっては邪魔者でしかないはず。
「それが亡くなられたのだから、スムーズな政権運営がでてきて万々歳では?」
そう思うかもしれませんが、ここで尊氏のメンタルが暴落します。
元々尊氏は武家政権を作りたいとは思っていたものの、後醍醐天皇と対立することは望んでいなかった。
直義も怖がっていたようですが、尊氏のほうが精神的ダメージをより強く受けていたようで、しまいには「怨霊に悩まされる」ようになってしまったとされます。
実際は怨霊というより「良心の呵責が夢に現れた」のでしょう。
この時代のことですから、ガチで怨霊だと信じていても不思議ではありません。なんせ尊氏ですし……。
余談ですが、後年になって尊氏は弟の直義と敵対し、直義が亡くなった後にも朝廷に贈位を願い出たり、尊氏の死後も数十年にわたって室町幕府が直義の供養を行っていたりします。
もはや室町幕府自体が「怨霊に囚われていた政権」と言えるかもしれません。

広島県尾道市の浄土寺に伝わる足利尊氏肖像画/wikipediaより引用
ともかくドン底モードになった尊氏を見て、直義も疎石も「またか……」とでも思ったでしょうけれど、同時にどうにか回復してもらうため様々な手段を講じたと思われます。
そして後醍醐天皇に詫びを入れるべく、慰霊のための寺院を建てようと考えました。
担当者には高師直などが任じられています。
『太平記』で「天皇などハリボテで充分」と言ったことになっている師直が慰霊のメンバーに入っているのが意外というか何と言うか……「余計に祟りが増すのでは?」とツッコミたくなりますね。
優秀な方であるのは間違いないでしょうが。
貿易船でお寺の造営費を捻出しよう!
では実際にどこに寺院を建てるのか?
というと、亀山殿という皇室の離宮だった場所に決まりました。
ここにはかつて檀林皇后が開いた「檀林寺」というお寺があったところです。

九相図で知られる橘嘉智子(檀林皇后)/wikipediaより引用
檀林寺が廃寺同然になってしまった後、第88代の天皇である後嵯峨天皇と、その息子・亀山天皇が「亀山殿」という離宮を作った場所でもありました。
西に小倉山を臨む、とても景色の良い場所ですので、霊を慰めるには良い場所だと考えられたのかもしれません。
しかし、離宮をお寺にするには、それなりの工事が必要で、当時の幕府には、とてもその余裕がありませんでした。
南北朝の争いは未だ終結したとは言い難く、戦費に押されて財政はカツカツ。
武士たちから広く浅く取り立てようにも、鎌倉幕府打倒にからんだ恩賞や所領安堵が遅れていたのをようやく安定したばかりの時期であり、しかも収穫期とぶつかったことで、なかなか応じる者も現れません。
そもそも【建武の新政】のせいで武士たちにも様々なトラブルが降りかかってきたわけで、その元凶とも言える後醍醐天皇の供養については積極的になれなくて当然ですよね。
資金不足の点から、天龍寺造営に反対する人もいました。
中には師直の邸に「天龍寺を建てたら災いがあるぞ!」と落書きする者もいたそうです。いや、子供かいな……。
となると、どこかで資金を調達せねば、せっかくの計画も絵に描いた餅となってしまいます。
そこで、直義たちが思いついたのが「寺社造営料唐船」でした。
「中国に貿易船を派遣し、その儲けで寺社を作る」というものであり、鎌倉時代にも建長寺(鎌倉市)創建のため派遣した前例がありました。
当時の直近ですと、元弘ニ年(1332年)に住吉大社の造営料を賄うための船が中国へ行った事例がありますね。
朝廷からは反対の声も強かったものの、夢窓疎石がどうにかこうにか許可を取り付けています。

夢窓疎石/wikipediaより引用
しかし、当時の中国王朝・元は度重なる内乱と倭寇(大陸沿岸でボーダーレスで暴れまわっていた海賊・日本人とは限らない)にかなり悩まされていた時期。
「話はわかったけど、事前に連絡をもらうにしても、海賊船と見分けがつかないよ」(※イメージです)
と、なかなか好意的になってもらえなかったとか。
当時のままは西側庭園の一部のみ
それでも粘り強く交渉した結果、何とか趣旨を理解してもらうことができ、交易は成功。
無事に天龍寺の造営とあいなります。
他にも各地の荘園からの寄進や、光厳上皇が手掛けた成功(じょうごう・官職と引き換えに資金を捻出させる)で費用が賄われました。
同寺は後醍醐天皇の七回忌に合わせて落慶供養(寺社の新築を祝うこと)が行われ、現在も歴史あるお寺として存続しています。

また、文和元年(1352年)に足利直義が鎌倉で急死してから10年後に、天龍寺付近で神号を与えられて供養されました。
この数年前から流行り病や地震などの天災が相次ぎ、非業の死を遂げた直義の鎮魂を行って鎮めようとしたようです。
とはいえ、生前の後醍醐天皇・南朝と直義の関係を思うと、こんなに近くで供養しても供養にならない気がしますが……。
天龍寺はその立地のためか、後年にもかなりの災難に遭いました。
一時は150ヶ所以上の子院(大きなお寺に付属する小さなお寺のこと)を持っていたものの、戦国時代までに6回もの大火災に遭った上、応仁の乱でも被害を受けたとされます。
応仁の乱の原因が尊氏の子孫である将軍家、というのがまたなんともいえないところです。

ちなみに、その応仁の乱の元凶こと足利義政の異母兄・足利政知は、天龍寺の香厳院で院主を務めていたことがあります。
政知は当時のカオス極まる関東を治めるために鎌倉へ行く予定だったのですが、あまりにもひどい状態だったので鎌倉へ入れず、堀越の地にとどまらざるを得なかったので「堀越公方」と呼ばれました。
右往左往させられっぷりが後醍醐天皇の呪いなんじゃないかと思うほどです。後醍醐天皇は自らの意志であっちこっちに行っていたのでまだいいにしても。
その後天龍寺は再建されたにもかかわらず、江戸時代後期と幕末にも焼けてしまい、現在の建物は明治時代にもう一度再建されたものが大半なのだそうで。
現在では夢窓疎石が手がけたとされる西側の庭園のさらに一部だけが、創建当時に近いものとのことです。
戦火で焼失→再建というのはよくある話ですが、うーん。

現在は世界遺産にも認定
そんな中でも、代々の僧侶たちは記録の保護に務めたようで。
中世から近世の京都における寺院の様子を知る貴重な史料が残されています。
中心にある「大方丈」という建物の御本尊となっている釈迦如来坐像は、平安時代の作とのこと。
つまり火災のたびに、僧侶や信徒たちがこの像を守ってきたということになります。

文化庁のデータベースにも寸法が書かれていないので、どの程度の大きさなのかわからないのですが……「時代を超えてご本尊を守った」というのは胸アツな話ですね。
天龍寺は現在世界遺産にも認定され、「雲龍図」や直営の精進料理店「篩月(しげつ)」なども親しまれています。
公式X(旧Twitter)のアカウント(→link)もあり、四季折々の写真を載せてらっしゃいます。
お気に入りの画像を見つけたら、同じ季節に訪ねてみるのもいいかもしれませんね。
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【参考】
『室町幕府論(講談社学術文庫)』(→amazon)
丸山裕之『図説 室町幕府入門』(→amazon)
国史大辞典





