戦国大名といえば、戦乱ドタバタの中で寺社を焼いてしまう&宗教と対立する――そんなイメージがあるものです。
織田信長の比叡山しかり(※誇張があるようですが)。
松永久秀の大仏殿しかり(※完全に冤罪ですが)。
一向一揆の討伐しかり(※長島や三河が有名ですね)。
そういったイメージがあまり無い伊達政宗にも、同様の歴史があったのです。
ただし、政宗の場合は、他の武将と違って、本人が調子に乗っていたきらいがあり、
『嗚呼、なんてコトしてくれてんだよ……』
と目を覆いたくなるような顛末になってしまいます。
天正17年(1589年)6月5日に勃発した【摺上原の戦い】で蘆名に大勝すると、その勢いで会津の恵日寺(えにちじ)という寺を焼いてしまったのです。
百歩譲って他の寺は良しとしても(もちろん良くはありませんが)、恵日寺だけは手を出したらアカン!
そんな場所で、なぜそんなことに?
恵日寺の歴史と政宗のやらかしを遡ってみましょう。
お好きな項目に飛べる目次
最澄 vs 徳一の「三一権実諍論」
空海と最澄といえば、日本史の授業でもおなじみの存在ですよね。
そんな彼らに対抗した、平安初期仏教・第三の男をご存知ですか?
その名は“徳一(とくいつ)”。
9世紀初頭、名だたる僧侶たちと熱い論争を繰り広げていた法相宗の高僧です。
当時、奈良の法相宗は、唐帰りの最澄がもたらした天台教学に完全に駆逐されていました。
「法相宗はじめ南都仏教は旧仏教で時代遅れ、もうおしまいになるよ♪」
なんて言われて黙ってられんわ!
と、奈良の僧侶たちが望みを託したのが、東大寺や興福寺で修行を積んだ徳一だったのです。
最澄vs徳一、両者の対決を
『三一権実諍論』さんいちごんじつ の そうろん
と言います。
知名度から言って、最澄が一蹴した圧勝に思われますか?
いえいえ。この論争、実に数年、一説によれば12年も続いているのです。
論旨を短くまとめると、こんなところ。
最澄:人は誰でも仏になれます。
徳一:いや、資質があるでしょ。そんなに簡単に仏になれるなら、苦しい修行は無意味じゃありませんか。
かくしてお互いが書物に記して議論を行っていたのですが、問題は、二人の距離。
実はこの徳一、会津の恵日寺にいました。
ご存知、最澄は比叡山での修行をもとに延暦寺を開いた僧侶ですから、普段は京都のすぐお隣、近江にいる。
それでも互いに譲れない性格であったようで、激しく宗論が交わされたんですね。
空海は華麗にスルー
では、最澄よりも柔軟な空海の場合はどうだったか?
徳一が議論をふっかけて『真言宗未決文』を送ると、これをおだてつつ無視するという高度な戦術を取るのです。
さすが天才児・空海さんですね。
「すごいっ、徳一菩薩!」
そうおだてつつ、論争を受けて立たずにスルーするんです。
この論争ですが、いずれも徳一が敗北しています。
彼が論理破綻していたから敗ればのではありません。
・弟子がいない
・彼の思想の後継者がおらず、著作も散逸してしまった
・恵日寺が地方の一寺院であるため、どうしても知名度や力で劣る
彼が奈良にいれば周囲のバックアップも強力ですし、そう簡単に負けることもなかったでしょう。
なれば、こんな疑問が湧いてきませんか?
「なぜ徳一は、都から遠く離れた会津などに恵日寺を建立したんだ?」
答えは【被災地復興】です。
磐梯山の水蒸気爆発で被災した
ときは807年(大同2年)。
徳一は会津で布教をしておりました。
その理由は806年の【磐梯山噴火】です。
磐梯山は水蒸気爆発による噴火を起こし、山体崩落を伴い、近隣エリアに大規模な被害を与えたのです。
同山では、1888年の噴火が有名ですが、それまでの記録が少ないだけで、807年にもおそるべき被害があった爪痕が残されています。
実際、磐梯山近辺には、大きな岩が多数残されています。
◆磐梯山ジオパーク(→link)
そんな被災地に、仏教の教えで安寧をもたらしたいと考えたのが徳一でした。
僧侶だけに当たり前だと指摘されるかもしれませんが、頭脳明晰な高僧であれば京周辺での活動も可能だったはず。
そうではなく遠い被災地を選んだ徳一、まさに人格者と言っていいでしょう。
彼が開いた恵日寺は、会津地方において僧や修験者が信仰を守る、民たちの心情的にも大切な場所となっていたのです。
そう。
そんな大事なお寺を、前述の通り伊達政宗は焼き払ってしまったんですね……。
恵日寺の歴史は、なかなか波乱万丈です。
◆天正17年(1589年)「摺上原の戦い」に勝利した伊達勢が会津へ侵入。近くにあった恵日寺も炎上する。金堂を残して全焼失
◆寛永3年(1626年)金堂焼失。再建されたものの、かつての勢いはない
◆明治2年(1869年)廃仏毀釈によって廃寺
政宗に焼かれただけでなく、明治時代にも廃寺とされています(1904年に復興)。
ともかく「被災者救済」という寺の成り立ちや、最澄や空海と並ぶ徳一の功績を考えれば
――絶対に焼いてはいけない寺だった――
という主張もご理解いただけるでしょう。
※続きは【次のページへ】をclick!