天龍寺船

後醍醐天皇/wikipediaより引用

源平・鎌倉・室町

足りない金は天龍寺船で賄おう!後醍醐天皇の怨霊に苛まされた尊氏が天龍寺を造営

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当時のままは西側庭園の一部のみ

それでも粘り強く交渉した結果、何とか趣旨を理解してもらうことができ、交易は成功。

無事に天龍寺の造営とあいなります。

他にも各地の荘園からの寄進や、光厳上皇が手掛けた成功(じょうごう・官職と引き換えに資金を捻出させる)で費用が賄われました。

同寺は後醍醐天皇の七回忌に合わせて落慶供養(寺社の新築を祝うこと)が行われ、現在も歴史あるお寺として存続しています。

また、文和元年(1352年)に足利直義が鎌倉で急死してから10年後に、天龍寺付近で神号を与えられて供養されました。

この数年前から流行り病や地震などの天災が相次ぎ、非業の死を遂げた直義の鎮魂を行って鎮めようとしたようです。

とはいえ、生前の後醍醐天皇・南朝と直義の関係を思うと、こんなに近くで供養しても供養にならない気がしますが……。

天龍寺はその立地のためか、後年にもかなりの災難に遭いました。

一時は150ヶ所以上の子院(大きなお寺に付属する小さなお寺のこと)を持っていたものの、戦国時代までに6回もの大火災に遭った上、応仁の乱でも被害を受けたとされます。

応仁の乱の原因が尊氏の子孫である将軍家、というのがまたなんともいえないところです。

ちなみに、その応仁の乱の元凶こと足利義政の異母兄・足利政知は、天龍寺の香厳院で院主を務めていたことがあります。

政知は当時のカオス極まる関東を治めるために鎌倉へ行く予定だったのですが、あまりにもひどい状態だったので鎌倉へ入れず、堀越の地にとどまらざるを得なかったので「堀越公方」と呼ばれました。

右往左往させられっぷりが後醍醐天皇の呪いなんじゃないかと思うほどです。後醍醐天皇は自らの意志であっちこっちに行っていたのでまだいいにしても。

その後天龍寺は再建されたにもかかわらず、江戸時代後期と幕末にも焼けてしまい、現在の建物は明治時代にもう一度再建されたものが大半なのだそうで。

現在では夢窓疎石が手がけたとされる西側の庭園のさらに一部だけが、創建当時に近いものとのことです。

戦火で焼失→再建というのはよくある話ですが、うーん。

 


現在は世界遺産にも認定

そんな中でも、代々の僧侶たちは記録の保護に務めたようで。

中世から近世の京都における寺院の様子を知る貴重な史料が残されています。

中心にある「大方丈」という建物の御本尊となっている釈迦如来坐像は、平安時代の作とのこと。

つまり火災のたびに、僧侶や信徒たちがこの像を守ってきたということになります。

文化庁のデータベースにも寸法が書かれていないので、どの程度の大きさなのかわからないのですが……「時代を超えてご本尊を守った」というのは胸アツな話ですね。

天龍寺は現在世界遺産にも認定され、「雲龍図」や直営の精進料理店「篩月(しげつ)」なども親しまれています。

公式X(旧Twitter)のアカウント(→link)もあり、四季折々の写真を載せてらっしゃいます。

お気に入りの画像を見つけたら、同じ季節に訪ねてみるのもいいかもしれませんね。


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長月 七紀・記

【参考】
『室町幕府論(講談社学術文庫)』(→amazon
丸山裕之『図説 室町幕府入門』(→amazon
国史大辞典

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