正平七年(=文和元年/1352年)閏2月28日、笛吹峠の戦いが行われました。
時代としては、南北朝の動乱まっただ中。
足利尊氏と足利直義(ただよし)による兄弟喧嘩【観応の擾乱(1349年-1352年)】が収束した直後のことであり
足利尊氏
vs
南朝方(主に新田家の生き残り)
という面子が争いました。
同時期に関東で行われたいくつかの戦とまとめて【武蔵野合戦】と呼ばれることもあります。
一言で言うなら「関東の覇権」を巡るものであり、一体何が起きていたのか、当時を振り返ってみましょう。
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閏2月の「閏」って何?
本題に入る前に、まずは少し暦(こよみ)について確認しておきたいことがあります。
ここに出てくる「閏2月28日」の「閏」って一体なんのことだろう……と思ったことはありませんか?
「閏年」ならわかるけど、という方も多そうですね。
結論から申しますと、この年は
【1月→2月→閏2月→3月→4月……12月】
となり、この1年間は13か月になる計算です。
つまり2月と3月の間に「閏2月」が加えられたんですね。
ではなぜ、そんなめんどくさいことをするのかというと、人間が作った暦と地球の季節が合っていないためです。
少しずつ調整するのは煩雑なので、一定期間ごとに調整するための日や月を挟んで、大きなズレが起きないようにしているというわけです。
現代では「四年に一度、2月を29日間にして調整」し、その年を「閏年」と呼んでいますね。
古い時代の日本では太陰暦=一年が約354日だったので、おおよそ3年に一度同じ月をもう一度繰り返して調整していました。
どの月が閏月になるのか?というのが年によって異なり、正平七年(=文和元年/1352年)の場合は2月の次が閏2月になりました。
そしてこの年の2月26日、観応の擾乱の末に足利尊氏の弟・足利直義が亡くなっています。

かつては源頼朝、近年では足利直義では?とされる神護寺三像の一つ(肖像画)/wikipediaより引用
前述の通り、笛吹峠の戦いが行われた閏2月は2月の次ですので、時期的には「直義の死から約一ヶ月後ぐらいの合戦」が【笛吹峠の戦い】ということになるわけです。
というわけで本題へ参りましょう。
親房の呼びかけに義貞の息子たちが呼応
この頃の時代になると、南朝方の代表的武将だった新田義貞も楠木正成も既に亡くなっています。
そんなタイミングで起きた北朝方の内輪揉め【観応の擾乱】を南朝方が見過ごすはずはありません。
足利尊氏らを潰す絶好のチャンスです。
後に『神皇正統記』を書いた人として名を残す北畠親房がこれに気づき、「尊氏を潰したい人、一緒に殺ろうぜ!!」と呼びかけたのです。
親房も南北朝の戦いの中でデキの良すぎる息子・北畠顕家を喪っており、殺る気にたぎっていたのでしょう。

北畠親房/wikipediaより引用
すると、これに応じたのが、新田義興・新田義宗(義貞の次男と三男)などの新田一門でした。
新田氏は何かと足利氏の下に立たされていましたし、義貞の仇を取るチャンスですから、士気は相当に高かったはず。
また、北条氏の生き残りである北条時行も加わっています。マンガ『逃げ上手の若君』の主人公ですね。
さらには尊氏の弟・足利直義派だった人々も、各所で兵を挙げました。
尊氏に自害を覚悟させるほど追い詰めるも
彼らはまず、小手指原で足利方と激突!
一時は足利尊氏に自害を覚悟させるほど追い詰めています。
しかし乱戦の最中で新田義興と新田義宗がはぐれてしまい、「疲弊したところで足利方に囲まれたらおしまいだ」と考えた義興は、イチかバチかで鎌倉へ攻め込むことにしました。
「武家政権の象徴」である鎌倉が敵の手に落ちたままというのも格好がつきませんし、同行していたとされる北条時行も鎌倉奪還を主張したでしょう。
そして義興らは一時鎌倉の占領に成功するのですが、足利方の反撃も実に早い。
鎌倉に残されていた尊氏の息子・足利基氏が父と合流し、鎌倉を奪還したのです。

足利基氏像(狩野洞春画)/wikipediaより引用
一方、小手指原に残っていた新田義宗も不利になっていました。
そこで彼は「このまま地元に帰っても状況は有利にならない。どうにかして味方と合流できそうな場所へ行かなければ」と考え、小手指原から北西の峠へ移ることにします。
後に「笛吹峠」という風流な地名になる場所です。
幸運なことに新田義宗は、兄の新田義興を待っている間に、
という味方と合流することができました。
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