今回は織田信長vs織田信賢の戦。
信賢は岩倉織田氏(=織田伊勢守家)であり、今日では「浮野の戦い」と呼ばれています。
永禄元年(1558年)のことで、さっそく見てまいりましょう。
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敵の岩倉城までわずか9kmの距離
信長の本拠地・清州城と、信賢の本拠地・岩倉城は、非常に近い。
現代の道路で9kmほどで、当時としてもかなりご近所さんといえる距離でしょう。
なぜか太田牛一は「三十町(3.3km)ほどだろう」と書いていますが、彼にとってはそのぐらいの距離感だったのかもしれません。
・黄色 清州城
・赤色 岩倉城
地図で確認しても目と鼻の先にあるのが実感できるでしょう。
今回の話の登場人物が概ね織田氏の親戚同士だからなのか。
しょっちゅう岩倉城周辺の情報が入ってくるからなのか。
そういった心理的距離も、牛一に3.3kmと勘違いさせた一因かもしれません。
では、約9kmがどれぐらいの大きさか?
というと、現代ならば、山手線の内側にギリギリ入るかどうかという範囲です。
ここまで物理的に近いと、一方が怪しい動きをすればすぐ他方にバレますし、戦になれば顔見知り同士で戦うことも明確でしょう。
また、戦略組み立てで大きな要素となる地形の情報も、ほぼお互いに筒抜けといえる距離。
この辺のことを意識しながらお読みいただくと、今回の話は腑に落ちる点が多くなるかと思います。
『信長公記』には書かれていませんが、もう少し背景の補足をさせていただきますと……。
「身内のゴタゴタを利用して、一気に攻めてやろう!」
信長は、弟・織田信勝(織田信行)を始末した後、岩倉織田氏を攻める機会をうかがっておりました。
信行が岩倉織田氏の信安と通じていたこと。
また信安自身も長良川の戦いで斎藤道三が討死した後、斎藤義龍と示し合わせて信長に敵対していたことなどが理由です。
一方その頃、岩倉織田氏は別件でもめていました。
当主だった信安が、なぜか長男の信賢よりも、次男の信家に跡を継がせたがったのです。
そのせいで信賢にキレられ、逆に信安が岩倉城から追放されました。
この手の「親が、兄より弟を贔屓した」話でうまく行った試しがないんですが、なんでみんな同じことするんでしょうかね。
ちなみに、信賢と信家の母親であるとされる秋悦院は、信長の叔母(織田信秀の妹)です。
ややこしい話ですが、尾張一国内でもごく近所の話なので、親戚関係と敵対関係がこんがらがるのも致し方ありません。
「身内のゴタゴタを利用して、一気に攻めてやろう!」
そう考えた信長は、念のため、いとこにあたる犬山城の織田信清に姉・犬山殿を嫁がせて味方に引き入れ、戦支度を進めます。
そして永禄元年(1558年)7月12日、ついに信長は岩倉攻めに立ち上がります。
弓vs鉄砲という変則的な一騎打ちが始まった
清州城から岩倉城へまっすぐ向かうと、地形が険しく攻めにくい。
そのため、信長は兵を迂回させて、足場が良い浮野という土地から攻撃に取り掛かります。
兵力は信長が2000。
後に到着した信清が1000ほどだったといいます。
岩倉城からは、兵3000ほどが出て応戦しましたが、信清の兵が到着して間もなく、信長方の圧勝となりました。
この節の本番といえるのは、次に書かれている「一騎打ち」の話です。
浮野の戦いが行われた地点の近くに、浅野という村がありました。
ここに、岩倉方の林弥七郎という、弓の得手で有名な武士がいたそうです。
彼を追ったのが、信長の鉄砲の師匠である橋本一巴(いっぱ)という武士でした。
どういう関係だったかは信長公記に書かれていないのですが、どうやらこの二人は既知の間柄だったようです。
二、三の会話をした後、弥七郎は弓を、一巴は鉄砲で互いを撃ちました。
日本刀vs現代の銃器という対決はたまに見かけますが、弓と鉄砲はなかなか記録上でも創作物でも見かけませんね。
当然二人とも大怪我を負いますが、浮野の戦いそのものが信長方の優勢になっていたこともあり、周りにも信長軍の者がいくらかいたようです。

利家の弟が腕を切り落とされ
そのうちの一人、信長の小姓を務めていた佐脇良之が、弥七郎の首を取るために走り寄りました。
彼は、あの前田利家の弟の一人で、26話で出てきた清州城代の佐脇藤右衛門の養子に入っていた人物です。
しかし、弥七郎にはまだ息があり、太刀を引き抜いて良之の左腕を小手ごと切り落としたのだとか。良之もひるまずに立ち向かい、ついに弥七郎の首を取ります。
想像してみるとすさまじいとしか言いようのない光景。
「これぞ戦国」という感じの話ですよね。
ちなみに、一巴もこのときの負傷が原因で命を落としています。
信長の師匠を務めたほど人物ですから、手痛い損失だったでしょう。
信長方の圧勝ぶりは、翌日の首実検にも表れています。
なんと、1250以上もの岩倉方の将兵の首があったそうです。3000いたうちの1250がやられるというのも、さすがに盛っているのでは?と……。
いずれにせよ兵の強弱は主家の団結にも大きく影響されますから、お家騒動をしていた岩倉方の危うさから、大敗していたのは間違いないことでしょう。
岩倉織田氏は、その後も少し粘るのですが、その前に一つ、信長らしいエピソードが挟まります。
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参考文献
- 国史大辞典編集委員会編『国史大辞典』(全15巻17冊, 吉川弘文館, 1979年3月1日〜1997年4月1日, ISBN-13: 978-4642091244)
書誌・デジタル版案内: JapanKnowledge Lib(吉川弘文館『国史大辞典』コンテンツ案内) - 太田牛一(著)・中川太古(訳)『現代語訳 信長公記(新人物文庫 お-11-1)』(KADOKAWA, 2013年10月9日, ISBN-13: 978-4046000019)
出版社: KADOKAWA公式サイト(書誌情報) |
Amazon: 文庫版商品ページ - 日本史史料研究会編『信長研究の最前線――ここまでわかった「革新者」の実像(歴史新書y 049)』(洋泉社, 2014年10月, ISBN-13: 978-4800305084)
書誌: 版元ドットコム(洋泉社・書誌情報) |
Amazon: 新書版商品ページ - 谷口克広『織田信長合戦全録――桶狭間から本能寺まで(中公新書 1625)』(中央公論新社, 2002年1月25日, ISBN-13: 978-4121016256)
出版社: 中央公論新社公式サイト(中公新書・書誌情報) |
Amazon: 新書版商品ページ - 谷口克広『信長と消えた家臣たち――失脚・粛清・謀反(中公新書 1907)』(中央公論新社, 2007年7月25日, ISBN-13: 978-4121019073)
出版社: 中央公論新社・中公eブックス(作品紹介) |
Amazon: 新書版商品ページ - 谷口克広『織田信長家臣人名辞典(第2版)』(吉川弘文館, 2010年11月, ISBN-13: 978-4642014571)
書誌: 吉川弘文館(商品公式ページ) |
Amazon: 商品ページ - 峰岸純夫・片桐昭彦(編)『戦国武将合戦事典』(吉川弘文館, 2005年3月1日, ISBN-13: 978-4642013437)
書誌: 吉川弘文館(商品公式ページ) |
Amazon: 商品ページ




