今回のテーマは「村木砦の戦い」です。
日本では「砦」と「城」の境界線があまり明確ではないので、この先は本連載の底本『現代語訳 信長公記(amazon)』に従い「村木城」と書かせていただきますね。
一応「砦=軍事拠点」「城=政務・居住機能を有する」という傾向はありますが、あまり「砦」という単語を使わないようです。
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本拠地のわずか30km南に今川が拠点を築こうと……
ときは天文二十三年(1554年)1月。
前13話で斎藤道三と織田信長が会見をしてから8ヶ月ほどが過ぎました。
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村木城をめぐっての戦いは、今川が岡崎を拠点として鴫原城(現在は重原城・愛知県知立市)を攻め取ったことから始まります。
今川軍はさらに、織田方の小河城(緒川城・愛知県知多郡)を落とすため、その手前の村木に城を構築しました。
この村木城、位置的には信長の本拠地・那古屋城にかなり迫っていて、南に30km程度しか離れていません。「目と鼻の先」になるかどうかギリギリという感じでしょうか。
那古屋城と小河城の間にあり、今川にとっては楔を打ち込んだようなイメージです。
地図で見れば、一発でご理解いただけますので、以下をご参照ください。
・黄色が織田の城(上が那古屋城で下が小河城)
・赤色が今川の城(右が鴫原城で左が村木城)
自らの出陣出馬にこだわった
城の地理的ポジションだけでなく、石高や兵数でも圧倒的に有利な今川軍。
これに対し、信長は策で対抗しようと考えました。
いったん海に出て、今川軍の背後を衝くのが最善です。
そして信長の場合、大事な戦は自ら軍を率いるのがポリシーですが、ここで懸念すべきことがありました。
本来は身内であるはずの清洲衆に、那古野城を攻められるおそれがあったのです。
普通の人ならここで「じゃあ家臣に小河城への援軍を任せよう」となるかもしれません。
が、信長はあくまで自ら出馬することにこだわります。
そのため、舅である斎藤道三に留守居役の兵を嘆願したのです。
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道三もこれを快諾。
なんだかマンガのような展開で、ワクワクしますね。
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