斎藤道三(左)と織田信長の肖像画

斎藤道三(左)と織田信長/wikipediaより引用

斎藤家 信長公記

道三と信長の初顔合わせ その時うつけは?|信長公記第13話

2019/02/28

織田信秀の跡を継ぎ、清洲衆と本格的に戦い始めた信長。

戦では、事前に味方を得ておくことが非常に重要な段取りとなりますが、当時の信長にとってアテにできそうなのが「美濃の蝮」こと斎藤道三でした。

妻・帰蝶の実父ですね。

信長にとっては義理の父にあたりますが、スンナリ味方になってくれるかどうか、見極めの難しいマムシ。

斎藤道三の肖像画

斎藤道三/wikipediaより引用

一筋縄でいかない相手と信長はどう付き合ったのか?

その大きな一歩が二人による直接の対面でした。

📚 『信長公記』連載まとめ

 

相手は下剋上の代名詞

斎藤道三は、信長の実父・織田信秀と、複数回に渡って戦をしていた過去があります。

さらにいえば、道三は下剋上の代名詞といわれるほどの知略をもった人物です。

まさに「一か八か」といったこの岳父と、信長が初めて対面したのは、天文二十二年(1553年)のことでした。

この年の4月下旬、道三から信長へ「富田の正徳寺で会おう」という申し入れがあったのです。

富田は当時、700軒ほどの家が並ぶ大きな集落で、現在の愛知県一宮市にありました。

会見の場として指定された正徳寺(現在は聖徳寺)は、石山本願寺から直接代理の住職を派遣してもらっていたため、この一帯は美濃・尾張の守護に税を免除されていたといいます。

 

つまり道三は、政治的・軍事的中立地帯での会見を申し込んだことになるわけです。

『信長公記』には書かれていませんが、すでに道三の娘・濃姫が信長に嫁いでしばらく経っており、婿・舅が双方安全な場所で初対面を果たすという意味では、至極妥当な判断といえます。

 


政秀の自害後に会見を申し込まれた

少し急ピッチでご説明申し上げましたので、混乱された方もいるかもしれません。

ここで、両者の間柄に影響している出来事を整理しておきましょう。

①天文十八年(1549年)信長と濃姫が結婚※十七年説も

②天文二十二年(1553年)閏1月13日 平手政秀の自害

③天文二十二年(1553年)4月下旬 道三から会見申し入れ←今回ここ

④弘治二年(1556年)4月 道三が長良川の戦いで討死・直前に信長へ美濃を譲る旨の手紙を残す

こうしてみると道三は【政秀が自害した後に会見を申し入れている】というのがミソのような気もしますね。

頼れるじいやを失った”うつけ者”が、婿に足る器かどうか。

能力を見極めて、もしも本当にうつけであれば尾張攻略を進める――それぐらいのことは考えていたようにも思えます。

 

行列をコッソリ覗き見していた道三に対し……

『信長公記』には、こんなことが書かれています。

「信長が会見場所に来るまでの行列を、道三がこっそり覗き見ていた」

「道三は礼儀正しい服装の集団で”うつけ者”を出迎え、恥をかかせようと考えていた」

太田牛一が直接見たわけではないでしょうから、どこまでが事実かはわかりません。

ただし、斎藤道三であれば、相応のことを部下に準備させていた可能性は大いにありましょう。

信長もそれに勘付いていたのか。

事前に、ある程度の対策をしていました。

正徳寺まではいつもの凄まじい格好(茶筅髷・袖脱ぎ・ひょうたん・虎皮豹皮の半袴など)で進み、

イラスト・富永商太

現地に着いてから髪と衣服を改め、道三の度肝を抜いたのです。

織田信長の肖像画

織田信長/wikipediaより引用

現代的かつ俗な表現をすると「ヤンキーから貴公子へ」みたいな変わりようだったのでしょう。

織田家の人々も「普段のあの格好は、人の目を欺くためだったのか!」と驚いたそうです。

 

朱槍の槍隊500 弓と鉄砲の部隊が500

「なんとかと天才は紙一重」なんて言い回しがありますが、当時の信長はまさにそんな感じだったかもしれません。

引き連れていた部隊も立派なものでした。

朱槍の槍隊500。

弓と鉄砲の部隊が500。

弓と鉄砲は内訳が気になるところですが、半々と言わずとも鉄砲が200ぐらいはないとこのような書き方にはならないような気もしますね。

この直後に起こった【村木砦の戦い】で信長は最前線に出て

「鉄砲をとっかえひっかえ撃った」

という記述はありながら、数がどれだけあったか、という点については記されておりません。残念です。

織田信長のイラスト。赤い背景を背に、鋭い眼差しで前を見据える戦国武将の姿を描いた作品で、『信長公記』の主題を象徴するビジュアル。
村木砦の戦い 信長が泣いた|信長公記第14話

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うつけ者の門前に馬を繋ぐだろう

こうして道三と信長は無事対面。

湯漬け(ご飯にだし汁をかけたもの)と酒を食しながらしばし語らい、無事に別れました。

別れ際、道三は斎藤家の兵の槍が短く、織田家の兵の槍がずっと長いことに気づき、帰り道でこう言ったとか。

「わしの息子どもは、あのうつけ者の門前に馬を繋ぐだろう」

これも有名な話ですね。

まるで揉めていた息子・斎藤義龍(高政)との争いが前提のような話で。

斎藤義龍の肖像画

斎藤義龍/wikipediaより引用

なお、道三と信長の関係は、戦国時代の婿・舅の関係としては比較的良好だった気がします。

道三から信長に援軍を出したこともありますし、その逆もまた然り。

残念ながら道三は、この会見から三年後の【長良川の戦い】で討死してしまい、その関係もわずかの間で真意の程は定かではありません。

もう少し長生きしていたら、信長の上洛戦にも協力していたかもしれません。

そうなれば、さぞかし絵になる二人であったでしょう。

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長月七紀

2013年から歴史ライターとして活動中。 好きな時代は平安~江戸。 「とりあえずざっくりから始めよう」がモットーのゆるライターです。 武将ジャパンでは『その日、歴史が動いた』『日本史オモシロ参考書』『信長公記』などを担当。 最近は「地味な歴史人ほど現代人の参考になるのでは?」と思いながらネタを発掘しています。

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