織田信秀の跡を継ぎ、清洲衆と本格的に戦い始めた信長。
戦では、事前に味方を得ておくことが非常に重要な段取りとなりますが、当時の信長にとってアテにできそうなのが「美濃の蝮」こと斎藤道三でした。
斎藤道三は如何にして成り上がったか? マムシと呼ばれた戦国大名63年の生涯
続きを見る
妻・帰蝶の実父ですね。
信長にとっては義理の父にあたりますが、スンナリ味方になってくれるかどうか、見極めの難しいマムシ。
一筋縄でいかない相手と信長はどう付き合ったのか?
その大きな一歩が二人による直接の対面でした。
お好きな項目に飛べる目次
お好きな項目に飛べる目次
相手は下剋上の代名詞
斎藤道三は、信長の実父・織田信秀と、複数回に渡って戦をしていた過去があります。
織田信秀(信長の父)は経済も重視した勇将~今川や斎藤と激戦の生涯
続きを見る
さらにいえば、道三は下剋上の代名詞といわれるほどの知略をもった人物です。
まさに「一か八か」といったこの岳父と、信長が初めて対面したのは、天文二十二年(1553年)のことでした。
この年の4月下旬、道三から信長へ「富田の正徳寺で会おう」という申し入れがあったのです。
富田は当時、700軒ほどの家が並ぶ大きな集落で、現在の愛知県一宮市にありました。
会見の場として指定された正徳寺(現在は”聖”徳寺)は、石山本願寺から直接代理の住職を派遣してもらっていたため、この一帯は美濃・尾張の守護に税を免除されていたといいます。
つまり道三は、政治的・軍事的中立地帯での会見を申し込んだことになるわけです。
『信長公記』には書かれていませんが、すでに道三の娘・濃姫が信長に嫁いでしばらく経っており、婿・舅が双方安全な場所で初対面を果たすという意味では、至極妥当な判断といえます。
政秀の自害後に会見を申し込まれた
少し急ピッチでご説明申し上げましたので、混乱された方もいるかもしれません。
ここで、両者の間柄に影響している出来事を整理しておきましょう。
①天文十八年(1549年)信長と濃姫が結婚※十七年説も
②天文二十二年(1553年)閏1月13日 平手政秀の自害
③天文二十二年(1553年)4月下旬 道三から会見申し入れ←今回ここ
④弘治二年(1556年)4月 道三が長良川の戦いで討死・直前に信長へ美濃を譲る旨の手紙を残す
こうしてみると道三は【政秀が自害した後に会見を申し入れている】というのがミソのような気もしますね。
信長の爺や・平手政秀が自害したのは息子と信長が不仲だったから?
続きを見る
頼れるじいやを失った”うつけ者”が、婿に足る器かどうか。
能力を見極めて、もしも本当にうつけであれば尾張攻略を進める――それぐらいのことは考えていたようにも思えます。
行列をコッソリ覗き見していた道三に対し……
『信長公記』には、こんなことが書かれています。
「信長が会見場所に来るまでの行列を、道三がこっそり覗き見ていた」
「道三は礼儀正しい服装の集団で”うつけ者”を出迎え、恥をかかせようと考えていた」
太田牛一が直接見たわけではないでしょうから、どこまでが事実かはわかりません。ただし……。
斎藤道三であれば、相応のことを部下に準備させていた可能性は大いにありましょう。
信長もそれに勘付いていたのか。
事前に、ある程度の対策をしていました。
正徳寺まではいつもの凄まじい格好(茶筅髷・袖脱ぎ・ひょうたん・虎皮豹皮の半袴など)で進み、
現地に着いてから髪と衣服を改め、道三の度肝を抜いたのです。
現代的かつ俗な表現をすると「ヤンキーから貴公子へ」みたいな変わりようだったのでしょう。
織田家の人々も
「普段のあの格好は、人の目を欺くためだったのか!」
と驚いたそうです。
まさしく……。
※続きは【次のページへ】をclick!