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【村木砦の戦い】
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わざわざ斎藤家の重臣がやってきた
天文二十三年1月18日、美濃から千人ほどの兵が那古野へ派遣されました。
一軍を率いる将は、安藤守就(もりなり)という斎藤家の重臣。道三死後も信長関連でよく出てくる割と著名な武将ですね。
出発から約2日後の1月20日に、彼らが那古野城の近くに到着すると、信長は自ら挨拶に出向いて留守を頼みました。
本当にフットワークの軽い御方です。
だからこそ後の【桶狭間の戦い】における成功が単なる偶然じゃないと思えます。
桶狭間の戦い 信長の勝利は必然だったのか『信長公記』にはどう書かれている?
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後顧の憂いはなくなった信長。
しかし、21日の出陣前にひとつトラブルが起きます。
筆頭家老だった林秀貞とその弟・林美作(みまさか)兄弟が、すねてサボってしまったのです。
理由は信長公記には記されてはおりません。
林兄弟はもともと信長の弟・信行を支持していたこともありましたし、
「よそから留守居(の安藤守就)を呼ばれる=筆頭家老としてのメンツが立たない」
とでも感じたのかもしれません。
外敵が迫ってるのに、そんなことでサボったらイカンと思うんですけどね……真相は不明です。
大嵐の中を義経の如くに船を出す
他の家臣たちは当然動揺しましたが、そこは信長、気にせず出陣、この日の夜は熱田に泊まりました。
那古屋城から海に出る、ちょうど中間地点にあたります。
そして22日を迎えました。
この日はあいにくの大嵐。
当然、船頭たちは
「この様子では舟は出せません」
と言いました。
しかし信長は
「昔、源義経と梶原景時が言い争ったときも、このような天気だったのだろう。いいから舟を出せ」
と強引に出航させます。
これは源平合戦のハイライトのひとつ・屋島の戦いの直前にあったとされる故事をひいています。
那須与一や「扇の的」でも有名なこの戦いの直前、悪天候を理由に景時が出航をためらっていたのを、義経が強行させた……というものです。
なぜ梶原景時は御家人仲間に嫌われた?頭脳派武士が迎えた悲痛な最期
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いやぁ、面白いですね。
太田牛一の才能に震えてしまいそうです。
よろしければ、後ほど屋島の戦いと那須与一の記事をご確認いただくとして先へ進みましょう。
熱田神宮で祈念すれば士気もあがろう
屋島の戦いを引き合いに出すということは、織田信長も嵐の中の乗船が【無茶ぶり】だということは承知の上だったのでしょう。
【条件が悪いとわかっていても、逃しちゃいけないチャンスってもんがあるんだよ!】
と思っていたようで、まさしく桶狭間の戦いの伏線に感じてなりません。
ともかく嵐の中を進んだ織田軍は、今川軍の背後にまわることに成功。
熱田神宮で祈念したのも、航海の安全を祈るためだったのかもしれません。
しつこいですが、後日述べる桶狭間の直前にも、信長はここへ詣でています。
これは信長個人の信仰というより
「武神として名高い熱田神社に立ち寄ることで、兵の士気を上げる」
ことが目的という可能性もありますね。
”うつけ者”だった頃の振る舞いといい、信長は「こういう行動をしたら、周りからはこう思われる」ということを計算して動いていただろう、ということがよくわかります。そして……。
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