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【村木砦の戦い】
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出迎えたのは家康の伯父・信元
信長は小河城主・水野忠政の息子である水野信元に直接会い、状況を詳しく聞いてそのまま小河に泊まりました。
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水野信元は徳川家康の伯父にあたります。
徳川家康の母・於大の方が妹で、水野家が織田側だったことから、後に今川方となる松平家との関係がややこしくなるんですね。
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水野・松平の話はさておき……24日の夜明けと共に織田軍は出陣。
村木城の攻撃に取り掛かりました。
信長は南側の攻めにくいところを自ら受け持ち、指揮を取りました。
このとき、鉄砲をとっかえひっかえ撃たせていたといいます。あ、熱い!
信長が自ら率いていることもあって、ここ担当の兵は非常に士気が高かったとか。
西の搦手は(裏口)は信長の叔父・織田信光、東の大手門は前述の水野信元がそれぞれ担当しています。
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今川軍もよく応戦しました。
8時頃から戦闘が始まって17時ぐらいまでの長丁場となり、ついに降参を申し入れてきます。
まるで公務員の就業時間みたいですが、戦は当然ながら甘くありません。
織田方にも死傷者が多く出ており、日が暮れたこともあって、信長も申し出を受け入れました。
「泣いた」という記述は珍しい
おそらく織田軍の被害の大きさも理由のひとつだったでしょう。
前述の通り、この戦では信長自身が最前線の兵を指揮していました。
その中には、日頃から信長の側近くに仕えている小姓たちも多く、当然、彼らも討死しています。
信長は本陣に戻ってから彼らの犠牲を思い、涙を流していたとか……うぉい><;
他の戦国武将同様に、信長も多くの親族や親しい人物を戦で亡くしていますが、『信長公記』でハッキリ「泣いた」と書かれているのは珍しいケースです。
まだ20歳ですから、若さゆえでしょうか。
翌日、この戦いで今川方についていた寺本城(愛知県知多市)を攻め、城下町に火を放って終わりとし、信長は那古屋城へ引き上げました。
★
1月26日、留守居役を頼んだ安藤守就に礼を述べ、その翌日、美濃勢が帰国。
稲葉山へ帰還した後、守就が戦の経過などを道三に報告すると、こう言ったといいます。
「信長は隣国にいてほしくない人物だな」
信長公記は家臣・太田牛一が記しているので、主君を持ち上げるための誇張は少なからずあるでしょう。
しかし道三からの信長評が決して低くなかったのは間違いないはず。
現在、村木砦は八劔神社となっています。
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信長公記をはじめから読みたい方は→◆信長公記
長月 七紀・記
【参考】
国史大辞典
太田 牛一・中川 太古『現代語訳 信長公記 (新人物文庫)』(→amazon)
日本史史料研究会編『信長研究の最前線 (歴史新書y 49)』(→amazon)
谷口克広『織田信長合戦全録―桶狭間から本能寺まで (中公新書)』(→amazon)
谷口克広『信長と消えた家臣たち』(→amazon)
谷口克広『織田信長家臣人名辞典』(→amazon)
峰岸 純夫・片桐 昭彦『戦国武将合戦事典』(→amazon)