若かりしころ「うつけ者」と呼ばれた織田信長。
父・織田信秀の死と同時に、尾張国内では敵だらけになる中、数少ない味方もおりました。
一人が平手政秀。
以下にある記事のように信長の傅役であり、最後は諫死(死で信長の行動をいさめる)することで知られますね。
-

平手政秀の生涯|自害した信長の傅役 その原因は息子と信長が不仲だったから?
続きを見る
そしてもう一人が本稿の主役、1556年1月7日(弘治元年11月26日)が命日の織田信光です。
一般的には、ほとんど注目されることのない名前ですが、信秀の跡を継いだばかりでまだ基盤がフラフラだった信長を支え、戦場でも活躍する武将。
しかし、惜しいかな、信長が大きく飛躍する前に、“怪しい死”を迎えてしまうのです。
あと少し長く生きていれば、織田軍団の中心にいたかもしれない。
そんな織田信光の生涯を見て参りましょう。
織田信光 信秀の弟として生まれ
織田信光は永正12年(1515年)、織田弾正忠家の当主・織田信定の子として生まれました。
織田弾正忠家とは、守護代の下にいた奉行の一族で、織田氏の中で際立った存在ではありません。
本流は伊勢守家から大和守家へ。弾正忠家はその家臣筋に過ぎませんでした。
しかし、にわかに状況が一変します。
信光の兄であり、織田信長の父でもある織田信秀が他の織田家を次々に従え、今川義元や斎藤道三などと争うようになったのです。
弟の信光は、この信秀を補佐して活躍するのでした。

織田信秀/wikipediaより引用
それにしても、なぜ家臣筋の信秀に、そんなことをできたのか?
もともと弾正忠家は、信秀の父・信定の代に、尾張交易圏の中心地だった津島(津島衆)を押さえておりました。
要は「お金」を背景に主家をしのぐ力を得たのです。現代でも戦国時代でも資金力が物を言うのに変わりはないんですね。
ただし、信定は短命で、大永6年~7年ごろ(1526~27年ごろ)には、息子の信秀に家督を譲渡。
弾正忠家の台頭に危機感をもった大和守家の当主・織田達勝とも争いを起こしたようですが、天文元年(1532年)ごろには和睦し、信秀は尾張の実質的な支配者となりました。
以後、信秀は尾張国内ではなく、隣国で力を有する松平氏・今川氏といった勢力と対峙していくことになります。
ところで織田信光は?
ご安心ください。
戦上手の信光は、この後、戦場で活躍していくことになるのです。
「小豆坂の七本槍」
尾張において織田弾正忠家が急速に発展したように、隣国・三河でも松平氏が力を伸ばしていました。
信秀と同年だったとされる松平清康(家康の祖父)のもと、次々に城を落としていったと伝わります。

家康の祖父である松平清康/wikipediaより引用
しかし、その一方で「反清康派」も家中にいたらしく、清康は城攻めの最中、家臣に裏切られ不慮の死を遂げます(守山崩れ)。
結果として信秀にとっては「思わぬ幸運」が舞い込んだ形となり、彼は続いて東方進出を目指しました。
織田信秀や織田信光は、今川義元の弟・今川氏豊が入っていた那古野城を乗っ取ると、清康の死で混乱する松平氏の領地・西三河へと侵攻。
三河の地で松平・今川氏を圧倒する戦果を挙げたと伝わります。
その過程の天文11年(1542年)。
松平氏にとって重要な拠点だった安祥城を落とした信秀は、彼らの本拠である岡崎城を目前に迫っていました。
ここを落とすことができれば、その先には豊橋や浜松への侵攻も見えてくる――地図でいったん確認しておきましょう。
黄色の拠点◆左から織田家の清州城・那古野城・安祥城
紫色の拠点◆松平家の岡崎城(一番右)
一方、松平氏も黙ってはおりません。
彼らを庇護する今川義元が救援のため進出。
信秀と義元は、岡崎城にほど近い小豆坂という場所で刃を交えました。
これが【第一次小豆坂の戦い】です。
戦いの詳細は関連記事(※記事末にも掲載)に譲りますが、
-

小豆坂の戦い(安祥合戦)で狙われた信長の兄|信長公記第2話
続きを見る
信光はここで「小豆坂の七本槍」と称される見事な働きを見せます。
彼らの活躍によって今川軍の大将は討ち取られ、退却に追い込まれたのです。
しかし小豆坂の戦いは一回だけ!?
織田信光の前半生を語る上で間違いなくハイライトとなるのがこの活躍。
しかし、残念なことに「そもそも『第一次』小豆坂の戦いはなかったのでは?」という指摘もあります。
「第一次」とついているからには「第二次」があるわけですが、天文17年(1548年)に全く同じ場所で同じように織田軍と今川軍が戦った【第二次小豆坂の戦い】については、ハッキリ史実であったと考えられています。
一方、信光が活躍した「第一次」については、
◆天文11年時点で今川氏が小豆坂まで侵攻するのは不可能
◆信秀の安祥城攻略は天文16年の出来事であり、信秀側も小豆坂で戦うのは不可能
という点が指摘されており、研究者の間でも「小豆坂の戦いは第二次しかなかった」という意見が目立っているようです。
とはいえ厄介なのは「第一次」の記述が『信長公記』に登場することでしょう。
江戸時代の軍記物にしか書かれていない合戦でしたら「実在していない」で話は早いのですが、信ぴょう性の高い信長公記に書かれている以上、「第一次はなかった」という断言も難しい。
現状では新史料の発見を待つしかなく、とりあえず当時の織田信光が戦場で活躍していた――という認識自体は間違いなさそうです。
道三と対立 四面楚歌に陥る
ここまでの経過では、信秀が連戦連勝で、非常に順調な歩みを遂げているように見えます。
実際、その考えは間違いではありません。そう、ここまでは。
信秀は、踏んではいけない虎の尾ならぬ蝮の尻尾を踏みつけてしまいました。
美濃の斎藤道三と敵対してしまったのです。

斎藤道三/wikipediaより引用
素性の怪しい身から斎藤家を乗っ取るようにして下剋上を果たし、ついには美濃一国を治めるまでに至った道三。
その巧みな計略により、信秀は翻弄されます。
信秀の苦境を敏感に察知したのでしょう。
これまで和睦を結んでいた大和守織田家の家臣たちが天文17年(1548年)、清須城で反乱を起こします。
大和守織田家の当主・織田達勝と信秀の仲は良好だったと目されます。
しかし、清須の老臣である坂井大膳・坂井甚介・河尻与一といった勢力が力を持つようになり、信秀に反旗を翻したのですね。
それに加えて、このころ【第二次小豆坂の戦い】が勃発し、信秀は今川相手に敗戦しました。
直後に安祥城を奪い返されており、
・北は斎藤
・東は今川
・国内は清須衆
という周囲敵だらけの四面楚歌状態に追い込まれてしまうのです。
「信光、信長よ、二人は親子であると思え」
慌てた織田信秀は、家臣であり信長の傅役でもあった平手政秀を通じて、斎藤家と和睦を画策しました。
首尾よく成功し、このとき信長のもとへ嫁いできたのが正室・帰蝶(濃姫)です。

清洲城・模擬天守の横にある濃姫(帰蝶)像
さらには周辺勢力の水野氏(徳川家康の母方の実家)との関係改善を図るなど、色々と手は尽くしますが、天文18年(1549年)ごろから病にむしばまれ、後継者の織田信長が一部政務を代行している様子が確認できます。
「信長が大うつけ」であったかは意見が分かれます。
しかし、ただでさえ「内憂外患」の状態にあり、さらに信長はまだ若年ですから、これではどれだけ優秀な息子だったとしても、父として、織田弾正忠家当主として、不安を感じずにはいられないでしょう。
死を目前にした信秀が頼りにしたのは、弟の織田信光でした。
当時、守山城主だった信光は、重臣として力を有していたからです。
一説には、信秀が「信光、信長よ、二人は親子であると思え」という遺言を残したともされており、実際に若かりし信長の後ろ盾として権力の確立を支えていきます。
別に親子と言わずとも、もともと血の繋がった叔父と甥ではないか――そう思われるかもしれませんが、当時は兄弟でも(だからこそ)激しく権力争いをする時代です。
実際、織田信長は後に弟の織田信勝(織田信行)に二度も裏切られ、最終的に謀殺することで事態を収拾しており、父の信秀としては信光と信長の結びつきを強くすることで少しでも衝突の回避を願いたかったのでしょう。
しかし……。
守護の斯波義統を大義名分に
信秀の死によって尾張の状況は混沌の様相を呈してきます。
敵対勢力は一気に活気づき、例えば坂井大膳を中心とした清須衆らが攻勢に出てきました。
天文21年(1552年)、弾正忠家に従っていた松葉城・深田城を清須衆が占領。
信長が出陣すると、織田信光は副将格として合流し【萱津の戦い】が幕を開けます。

若き日の織田信長イメージ/絵・富永商太
信長は、敵の実力者・坂井甚介を討ち取るなどの大勝を収め、「大うつけ」として疑問視されていた能力を内外に示します。信光が支えていたことは言うまでもありません。
世に名高い「聖徳寺の会見」によって道三も信長への協力を表明するなど、周囲の環境は徐々に好転していきました。
巡り合わせの良いときは、都合の良いことが続くもの。
天文22年(1553年)には清須城内にいた守護の斯波義統(しばよしむね)が、守護代・織田信友のクーデターで殺害されます。
裏では大膳らが手を引いていたとされ、義統の嫡子・岩龍丸は逃走し、信長に保護を求めてきました。
殺害された守護の息子を確保するということは、すなわち「敵討ち」の大義名分を得たことになります。
加えて、清須勢力をまとめていた大膳も、信長との戦によって孤立していき、苦境に追い込まれていきました。
信長から「尾張半国」を約束される
このままではマズい……。
大膳も、そう考えたのでしょう。
しかし、切羽詰まるとロクな考えは浮かばないもの。あろうことか大膳は、織田信光への接近を試みるのです。
「信光殿よ。信友殿と並んで守護代になってみませんか?」
守護代のポジションという人参をぶら下げ、信長から信光を引き離そうとしました。この一件は、信長の後ろ盾である信光が、いかに敵対勢力にとって脅威であったかを示しています。
そしてこの提案を受けた信光。
「守護代か。なるほど、悪くないな」と彼の言葉に従い、守護代の一角と相成りました。
えっ? 兄の遺言で託されたうえに、争いで優位に立つ信長を裏切る?
そう思われるかもしれませんが、この誘いで【信長―信光】の関係が揺らいだわけではありません。むしろその逆。
二人は
「せっかく清須城に入れるのだから、この機会に(城主の)信友を追い込んで、城を奪ってろう」
というように意気投合したのです。
もちろん信光に何の恩賞がないワケではありません。
「コトが成った暁には、尾張の半分を分割して支配する」という条件で話はまとまり、準備は万全に整っていきます。
一方、計略を仕掛けたつもりの坂井大膳。
策士、策に溺れるとはこのことで、最大の敵を自ら城内に引き入れてしまうのでした。
衝撃! 突如、家臣に殺害されてしまった信光
清須城に入った織田信光は、早速動きました。
信友を自害に追い込んだばかりでなく、有力家臣であった大膳を見事に清須城から追放するのです。
こうして城を占拠した信光は、事前の打ち合わせどおり信長に清須城を譲り、自身は那古野城へと入りました。

ちなみに、大膳は今川氏の元へ落ち延びたとされますが、その後の消息は不明です。
当時の信光は、それはもう得意絶頂であったことでしょう。
信長の権力確立に尽力したことで、自身の立場も安泰。
さらに「尾張の分割支配」も約束していたわけですから、完全な勝者になる……ハズでした。
結論から言えば、彼の人生はその半年後に唐突な終わりを迎えることになります。
天文23年(1554年)、信光は家臣・坂井孫八郎によって殺害されてしまうのです。
殺害の動機についてハッキリと分かっているわけではありません。
『甫庵信長記』という史料によれば「孫八郎と北の方(信光夫人)が密通していたことが原因」と書かれています。
ただ、この史料は『信長公記』に比べると信ぴょう性に欠ける代物であり、ましてや「色恋」が理由というのは話として出来すぎている気がしてなりません。
別の可能性を考えて参りましょう。
信長黒幕説の真偽
これまで信長にとって欠かせない後ろ盾であった織田信光。
清須勢力を打倒した後、その価値は低くなっています。
なんせ「尾張支配の約束」を果たせば領土を半分譲らねばならず、外交方針や合戦で意見が違えば、信長の行動を大きく制約する障害にさえなり得ますし、再び国が分裂する危険性も高い。
戦国大名にとって「権力の一元化」は生死にかかわる問題です。
信長側の視点から信光の存在を考えたとき「このタイミングで死んだことは、かなりの幸運であった」と言えるかもしれません。
早すぎもせず、遅すぎもしない絶妙な頃合いと申しましょうか。

織田信長/wikipediaより引用
しかし、人の死期というのもは、そうそう都合よく訪れるものであはりません。
となれば、当然ながらこんな説が浮かんで参ります。
「孫八郎が信光を殺したのは、信長が命じたからではないか?」
いわば「黒幕説」ですね。
ただし、信ぴょう性の低い軍記物(小説)などを含めても、「信長黒幕説」を裏付ける史料は存在しません。
「黒幕」は表に出ないからこそ黒幕。
好き好んで暗殺の指示を記録に残しておくはずがありません。
それでも史料無くして史実を語ることはできませんから、妄想の域を出ないのです。
信長のように歴史に名を残す偉人というものは、往々にして「冗談かと思うようなラッキー」に恵まれるもの。
信光の死も「暗殺を疑われるほど絶妙なタイミングで亡くなっただけ」なのかもしれません。
いずれにせよ織田信光というマイナーな武将が、信長の尾張統一に貢献していたことは間違いないでしょう。
あわせて読みたい関連記事
-

天下統一より過酷だった信長の尾張支配|14年に及ぶ苦難の道を年表で振り返る
続きを見る
-

織田信長の生涯|生誕から本能寺まで戦い続けた49年の史実を振り返る
続きを見る
-

平手政秀の生涯|自害した信長の傅役 その原因は息子と信長が不仲だったから?
続きを見る
-

織田信秀(信長の父)の生涯|軍事以上に経済も重視した手腕巧みな戦国大名
続きを見る
-

今川義元の生涯|“海道一の弓取り”と呼ばれる名門武士の実力とは?
続きを見る
【参考文献】
谷口克広『織田信長家臣人名辞典(吉川弘文館)』(→amazon)
谷口克広『天下人の父・織田信秀――信長は何を学び、受け継いだのか(祥伝社)』(→amazon)
岡田正人『織田信長総合事典(雄山閣出版)』(→amazon)
「信長の叔父・織田信光はなぜ、暗殺されたのか(WEB歴史街道)」






