織田信長の肖像画

織田信長/wikipediaより引用

織田家

天下統一より過酷だった信長の尾張支配|14年に及ぶ苦難の道を年表で振り返る

2025/07/14

「父親の位牌に焼香ならぬ投香した」とか。

「延暦寺で女子供も殺しまくった」とか。

「長島一向一揆で信徒2万人を焼き殺した」とか。

インパクト大なエピソードばかりが広がりがちな織田信長。

実は、家督を継いだ当初、尾張一国どころか織田家すら掌握できず四苦八苦していたのは、大河ドラマ『麒麟がくる』でご存知の方も多いかもしれません。

父の織田信秀が42才で亡くなると、跡を継いだ19才の信長は「うつけ」とされ、親類衆からも「アホに従ってたら滅ぼされるわ」と次々に裏切られていくのです。

その期間、実に1552年から1565年まで。

永禄8年(1565年)7月15日あたりに犬山城の織田信清が落ちたことで信長の尾張統一が成されたと見られています。

織田信長/wikipediaより引用

一体なぜそれほどの期間が必要となったのか?

ある意味、その後の天下統一事業よりも苦心させられた14年にも及ぶ戦いを、本記事では六段階に整理してみましたので、よろしければご覧ください。

📚 戦国時代|武将・合戦・FAQをまとめた総合ガイド

 

尾張国内に群雄割拠の親類たち

まずは始まりと終わりの確認をしておきましょう。

天文21年(1552年)3月に父の織田信秀が死亡。

そして信長が家督を継いでから13年後の永禄8年(1565年)、織田信清の犬山城を制して完全な尾張統一を成し遂げます。

実は1559年に尾張の主要エリアを治めていたのですが、ここでは1565年の完全統一を基準としたいと思います。

ともかく、なぜ、織田家はこれほどまでにバラバラだったのか?

答えは単純で、そもそも尾張の中で織田家はいくつも枝分かれしていたんですね。

信秀死亡時の勢力図を見てみると、以下の通りです。

【尾張の勢力】

◆上四郡(葉栗・庭・中島・春日井)は守護代の織田信安が優勢

◆下四郡(愛知・海東・海西・知多)は守護代の織田彦五郎が優勢

◆犬山エリアは織田信清

※それぞれの家でも家臣の台頭や親子の争いがあったりしてバラバラ

信長が生まれた血筋は、本来、織田家の中では傍流であり、本家から見ればオマケ程度でした。

【守護】斯波氏

【守護代】織田氏

【清洲三奉行の一つ】信長の家

それがどうして勢いを持ったのか?

と言いますと、信長の祖父や父の織田信秀が津島衆を押さえて商業を盛んにしたり、室町幕府や朝廷との関係を構築したり、さらには今川や斎藤との合戦で頑張ったりして、尾張国内の親類勢から抜きん出たのでした。

織田信秀/wikipediaより引用

戦国時代は、勝手に官位を名乗る大名が多かった中、外交力もある信秀は正式に朝廷から任官されるほど。

尾張統一まで目前でしたが、42才のとき、志半ばで亡くなってしまいます。

 


尾張統一までの6ステップを確認

勇将・信秀が死に、跡を継いだ信長。

ブッ飛んだ人ですから、尾張は大変なことになります。

いわゆる「うつけ」と呼ばれていて、評判が最悪だったのはよく知られているところですね。

若き日の織田信長イメージ/絵・富永商太

信長は、その実力を周囲に理解してもらう前に、あれよあれよと戦いの日々へ引きずり込まれます。

特に1552年から1565年までは身内を相手に毎日戦闘状態でした(桶狭間は1560年)。

年表でざっと見ておきましょう。

【信長苦心の尾張統一】

◆第一段階

1552年 父・織田信秀が没する

1552年 赤塚の戦い……山口親子の裏切り

→若い信長は家臣たちにナメられ、父の死と同時にさっそく裏切られます

◆第二段階

1552年 萱津の戦い……坂井大膳らと合戦

→清州城の実力者・坂井大膳を相手に信長が快勝し、能力を見せつけましたが、まだまだ周囲は納得してくれません

◆第三段階

1553年 守護・斯波義統しばよしむねが殺害され、信長が息子の斯波義銀しばよしかねを引き受ける

1554年 清州城乗っ取り……坂井大膳は逃亡

→清州城を取り仕切っていた坂井大膳を城から追い出し、尾張の中心・清州城を手中におさめます

◆第四段階

1554年 村木城の戦い……対今川の戦い(斎藤家の安藤守就が味方)

1556年 長良川の戦い……斎藤道三と斎藤義龍の戦い

→今川との戦いや、斎藤家の内紛で、結果的に後ろ盾の道三を失います

◆第五段階

1556年 稲生の戦い……弟・織田信勝と対立し、林秀貞や柴田勝家らと戦う

1558年 浮野の戦い……織田信賢との合戦

1559年 岩倉城の戦い……信賢を討って、尾張の大部分を掌握

→しかし依然として以下のエリアは勢力外

【尾張北部は織田信清】

【尾張東部は今川】

※この時期から隣国・美濃攻略もボチボチ始まります

◆第六段階

1562年 於久地城の戦い……織田信清勢との戦い

1563年 小牧山城へ移転

1565年 犬山城の戦い……織田信清を追放してついに尾張を完全統一

→尾張北部の犬山城と同時に美濃攻めも始め、1567年稲葉山城の戦いで美濃を制します

いかがでしょう?

息が詰まりそうなほど親類・家臣との戦いに忙殺されているのがわかりますよね。

19歳で家督を継いでから14年間戦い続け、ようやく一国の支配が叶うと、信長は32歳になっていました。

 

尾張統一事業の合間に桶狭間の戦いで勝利って

何より驚きなのは家中ゴタゴタした状態で、1560年(永禄3年)の【桶狭間の戦い】で勝利していたことでしょう。

詳しくは以下の別記事に譲りますが、

桶狭間の戦い
桶狭間の戦い|なぜ信長は勝てたのか『信長公記』を元に合戦の流れを振り返る

続きを見る

信長軍2,000という数字は半数近くが精鋭の馬廻衆等だったため、単純に今川軍との兵数だけでは比較できないと思います。

仮に3倍の兵力と正面から対峙したって、今川軍の中には雑兵・足軽も多く含まれていたわけです。

殺しのプロ集団である武士vs半農民との戦いであれば、圧倒的に前者が有利。

いずれにせよ、家中や尾張をまとめきれないうちに【海道一の弓取り】こと今川義元という大大名を打ち破ったのですから、周辺へ能力を示す絶好のチャンスでした。

今川義元(高徳院蔵)/wikipediaより引用

この後は徳川家康との清須同盟や美濃攻略を経て、信長率いる織田家は天下への階段を一気に駆け上がっていきます。

なお、文頭で例に挙げました

「父親の位牌に焼香ならぬ投香した」

「延暦寺で女子供まで殺しまくった」

「長島一向一揆で信徒2万人を焼き殺した」

ですが。その字面のまま鵜呑みにできないような内容も含まれています。

よろしければ以下の記事をご参考にしてください。

◆位牌に投香

→これはおそらく事実

焼香投げつけた直後に政秀が自害|信長公記第9話

続きを見る

◆延暦寺の虐殺

→遺体や焼き跡が出土せず微妙

絵本太閤記に描かれた比叡山焼き討ちの様子/当時は実際どうだったのか。事件の真相に迫る
信長の比叡山焼き討ち事件|数千人もの老若男女を“虐殺大炎上”は盛り過ぎ?

続きを見る

◆長島一向一揆の虐殺

→おそらく事実なれど、都合3度の戦いで織田軍も数多の武将や親族を殺されており、そのまま2万もの信徒を野に放てば石山本願寺で復讐される危険性が見えていたという事情がある

織田信長の肖像画
長島一向一揆|三度に渡って信長と激突 なぜ宗徒2万人は殲滅されたのか

続きを見る

尾張統一を果たした信長は、並行して美濃の攻略に着手。

果たして1567年に稲葉山城を陥落させると、翌年には足利義昭を奉じて上洛するわけですから、尾張を固めてからは凄まじい快進撃……と言いたいところですが、実際は、あらゆる敵勢力に囲まれて過酷な戦いを強いられ続けます。

その詳細は、以下にあります信長の生涯記事をご覧いただければ幸いです。

※尾張統一を年表にもまとめておきました

 

内紛ばかりの尾張統一年表

1552年 家督継承

1552年 赤塚の戦い(vs山口親子)

1552年 萱津の戦い(vs坂井大膳)

1553年 守護・斯波義銀を引き受ける

1554年 清州城を乗っ取り(vs坂井大膳)

1554年 村木城の戦い(vs今川)

1555年 長良川の戦い(道三vs義龍)

1556年 稲生の戦い(vs弟・信勝)

1558年 浮野の戦い(vs織田信賢)

1559年 岩倉城の戦い(vs織田信賢)※尾張ほぼ統一

1560年 桶狭間の戦い(vs今川義元)

1561年 梅ケ坪城の戦い(vs三宅氏)

1561年 守護・斯波義銀を追放

この辺りから新たに【美濃攻略】も始まります

1561年 森辺の戦い(vs斎藤龍興)※追放されていた前田利家が復活

1561年 十四条の合戦(vs斎藤龍興)

1562年 清洲同盟(家康と同盟)

1562年 於久地城の戦い(vs織田信清)

1563年 小牧山城へ移転

1565年 犬山城の戦い……織田信清を追放して尾張を完全統一

📚 戦国時代|武将・合戦・FAQをまとめた総合ガイド


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【参考】
池上裕子『人物叢書 織田信長』(→amazon
太田 牛一・中川 太古『現代語訳 信長公記 (新人物文庫)』(→amazon
谷口克広『織田信長合戦全録―桶狭間から本能寺まで (中公新書)』(→amazon
和田裕弘『織田信長の家臣団―派閥と人間関係(中央公論新社)』(→amazon
桐野作人『織田信長 戦国最強の軍事カリスマ』(→amazon
信長公記

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長月七紀

2013年から歴史ライターとして活動中。 好きな時代は平安~江戸。 「とりあえずざっくりから始めよう」がモットーのゆるライターです。 武将ジャパンでは『その日、歴史が動いた』『日本史オモシロ参考書』『信長公記』などを担当。 最近は「地味な歴史人ほど現代人の参考になるのでは?」と思いながらネタを発掘しています。

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