1336年(日本では建武の新政が終わりかけた頃・建武三年)4月9日、中央アジアの梟雄・ティムールが誕生しました。
一代で「ティムール朝」または「ティムール帝国」と呼ばれる一大勢力圏を築き上げた御方です。
世界史的にはアレクサンドロス3世やナポレオンと同じような規模の遠征をやっているんですが、日本の授業ではあまりやりませんよね。まぁ8割がた世界史=欧米史扱いだから仕方ないか。
ひとことで言うと良くも悪くも「中央アジアの織田信長」みたいな人です。
余計わかりにくくなった気もしますが、話を追っていけばなんとなくわかっていただけるかと。では、本題に入っていきましょう。
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様々な人々が交差する街でトリリンガルになる
ティムールは、現在のウズベキスタン・サマルカンド州で小貴族の家に生まれました。
サマルカンドは中国の歴史書「後漢書」にも出てくる非常に古い町です。
後漢書の成立が5世紀なので、少なくともティムールが生まれた時点で800年の歴史を持っていることになります。
現在では「サマルカンド 文化交差点」という美称で世界遺産にも登録されています。
ティムールの生まれは都市部ではなく、そのぶん幼き頃から乗馬や弓術に励むことができたようです。
当時この辺りはシルクロードのうち「オアシスの道」と呼ばれるルートの分岐点にあって、さまざまな民族の商人や旅人が出入りしていました。
そのためか、ティムールも若いうちに3言語を操るトリリンガルになっていたといいます。
そもそも「サマルカンド」とは「人々が出会う町」を意味するのだそうで。あら、ロマンチック。
ということは「いやー さがしましたよ」というふざk……のんきな発言で有名な例の王子の名も「人々の◯◯」という意味になるんですかね(分かる人だけわかってください)。
貴族といっても大きな家ではなく、ティムール自身が家畜の見張りをしていたこともあったそうです。
略奪などの乱暴な行為をすることもありましたが、部下に気前よく戦利品を分け与え、人望を得ていきました。
一時は300人規模の強盗団になっていたそうですから、なかなかの求心力ですよね。
モグーリスタン・ハン国で出世も、間もなく逃亡
それをどこかから聞きつけたのか。
モンゴル系国家の一つチャガタイ・ハン国のお偉いさんであるカザガンという人物から「お前、うちで働いてみないか」と誘われます。
このころ彼は推定10代。
リクルートの打診を受け入れ、側近として働き始めます。根っからの不良というわけではなかったんですね。
カザガンには孫がおりました。
アミール・フサインと言い、ティムールは彼とも親しくなることで権力も手に入れていきます。
当時の中央アジアは、モンゴル系国家(◯◯・ハン)や貴族、国とまでは行かない規模の土豪による争いが続いており、群雄割拠という様相でした。
この地域における戦国時代といってもいいでしょう。
さて、ティムール24歳のとき、サマルカンドの東にあったモグーリスタン・ハン国が軍事侵略をかけてきました。
ティムールは、モグーリスタン・ハン国の王であるトゥグルク・ティムール・ハンの軍に出向き、会見を申し込んで臣下になることを申し出ています。
そして地方領主の一員として認められました。
随分あっさりしておりますが、モグーリスタン・ハン国は自国の記録をあまり残していないため、詳しい経緯がわからないようです。よほど実利主義の国だったんですかね。
ティムールもここには長居せず、妻と家来を連れて逃亡しています。
その後はモグーリスタン・ハン国に逆らう人々と合流して戦いました。
自らも矢傷を負いながら、この頃衰退していたチンギス・ハーンの次男家系の国である西チャガタイ・ハン国に傀儡の王を立て、実権を握っています。
次第に人望を得たティムールは足元を着実に固め
モグーリスタン・ハン国で代替わりが起きると、サマルカンドまで攻め込まれるという窮地に陥りました。
当時のサマルカンドには城壁などがなく、無防備な町と思われていたからです。
が、サマルカンドの住民の中には、「サルバダール運動」という反モンゴルを掲げる一団を作っている人たちがいて、彼らが兵を指揮してモグーリスタン・ハン軍を追い返しました。すげえ。
しかも、モグーリスタン・ハン側の軍馬が同じ時期に病気で激減し、大きく力を削がれます。馬に風土病とかあるんですかね?
これを知ったティムールたちはサマルカンドに戻り、サルバダールの面々を褒め称えたのですが……後に彼らを皆殺しにしています。
後の禍根になると思ったのでしょうけれども、生かしておいてうまく使ったほうがよかったんじゃ、という気もします。
この間、ティムールには協力者としてフサインという人物がおり、お約束通り、だんだん反りが合わなくなっていきました。
フサインは自分の本拠地・バルフの改築のために重税を課したり、権力者として増長したために人望を失っていきます。なんでこう自ら墓穴を掘っていくんですかね。
これと反比例するようにティムールを支持する部族が増え、しかも彼は人気にあぐらをかくことなく、地固めを続けました。
ムスリムの聖者サイイド・バラカに寄進を行い、権力者の象徴とされた太鼓と旗を授かったり、モンゴル帝国の王族の末裔を担ぎ上げたりなどです。
外堀を埋められつつあることを悟ったフサインは降伏を申し出、ティムールもこれを受け入れました。
しかし、ティムールの同盟者によってフサインは処刑されてしまいます。
といってもあまり問題にしなかったらしく、ティムールはイスラム教を国教とし、新しい国を作ることを宣言しました。
ただし、ハンに即位することは否定し、脱モンゴルを明らかにしています。
自業自得の面が強いとはいえ、何もなかったことにしすぎじゃないかなぁ、と……。
遠征、遠征、また遠征 合間に帰国&内政も忘れず
ティムールのやったことは功罪の落差が激しいのですが……。
サマルカンドの町が発展したのは、間違いなく彼の功績です。フサインとのアレコレが終わってから、彼は城壁や宮殿、町の建設を始めました。
また、遠征を行っても、数年に一度は国へ戻って内政に取り組んでいます。地元をほったらかしすぎて自滅する支配者も珍しくない中、ティムールはおおむねバランス感覚に優れていた、と見ることができるのではないでしょうか。
こうして地元が片付いた後、ティムールはモグーリスタン・ハン国へ逆に攻め込んでいきます。
その後も、ハン系国家やそれに連なる部族たちを相手に、戦や外交を駆使して勢力を広げました。
1381年以降はペルシア方面(西アジア)へ遠征を重ね、4年ほどで現在のアフガニスタンやイラクにまで進出しています。
一時は、オスマン帝国の手前まで攻め入りました。最終的に現在のアルメニアまでを征服し、キリスト教徒を崖から突き落として処刑したといいます。
反抗の兆しがある者や異教徒に対する残酷さも、彼の特徴の一つでした。
もう少しでオスマン帝国と全面戦争になるところで、1388年にモンゴル系国家の一つジョチ・ウルスがティムールの本拠地に攻め込んできたため、ティムールも慌てて帰還。
留守を任されていた守備軍はジョチ・ウルス軍を防ぎきれず後退していたのですが、再びティムールが駆けつけるとジョチ・ウルス軍のほうが退いています。
しかしジョチ・ウルスの王トクタミシュもなかなかのもので、既にティムールの傘下になった者に反乱をそそのかしたり、モグーリスタン・ハン国と同盟を結んだりと、いろいろな手を使ってきました。
さすがのティムールも危機に陥りました。
が、モグーリスタンについては7回も遠征して解決しています。これだけ戦を繰り返せば厭戦気分が高まって、身内に裏切られることも珍しくないのに、ついてきた兵もすごいですよね。
ティムールは、昔から戦利品を気前よく分け与えて人望を得ていったといわれていますので、王になってからもそうだったのかもしれません。
最終的にトクタミシュに辛勝するが、この戦いの中でティムール自身も「矢傷による骨と関節の病」にかかり、40日も寝込んだといいます。
この病のせいで右足が不自由になり、症状は少しずつ進行していきました。
晩年は馬に乗るのも難しい状態だったそうなのですが、現代の病名だとどの辺になるんですかね。
インドへも遠征しておりました
トクタミシュを退けた後、ティムールは西アジア遠征を再開します。
現在のイランにあったムザッファル朝との戦いでは、一時はティムール自身が頭を二度切られるほどの混戦もありましたが、近くにいた兵士に助けられました。この辺からも、兵からの信頼が厚いことがうかがえますね。
そしてバグダードを含むジャライル朝も攻略しましたが、エジプトのマムルーク朝やオスマン帝国、ジョチ・ウルスなどによる同盟が組まれて包囲状態になってしまったために、ティムールは国へ戻らざるを得ませんでした。
その後は勢力を盛り返したトクタミシュと再び戦い、3日かけて勝利。
そのままジョチ・ウルスの首都サライや、モスクワ大公国の都市アストラハンまで侵攻し、これらの町を破壊します。
モグーリスタンからは王の娘テュケル(トゥカル)を妃の一人に迎え、同盟を組んで和解していました。
ティムールには数多くの妃がいましたが、テュケルは第二夫人待遇で、しかも彼女のために宮殿や庭園を作っているので、それなりに誠意を示そうとしたのでしょう。
こうしてまた地元周辺が落ち着いた後、1398年から翌年にかけて今度はインドへ遠征しました。
実はこれまで孫のピール・ムハンマドにインド攻撃を命じていたのですが、戦果がはかばかしくないために親征を決意したのだとか。
前線は部下に任せ、ティムール自身は後方のヒンドゥークシュ山脈にはびこる賊討伐を試みました。
しかし、今までと違って雪深く、標高の高い場所での進軍は非常に困難で、兵の士気を保つだけでも一苦労。
ヒンドゥークシュ山脈とは最高峰ティリチミール(7708m)をはじめとした7000m級が連なるところです。
そもそも「ヒンドゥークシュ」で「インド人殺し」を意味するとか。怖すぎ。
標高の低いところを中心に、インドと中央アジアを結ぶ道はいくつかありますが、とても大軍が行き来しやすい場所とはいえません。
ティムールはこの周辺の支配を強化すること、後方の憂いを断つことの二つの目的から諦めませんでした。
上が殺る気満々だからか、兵の士気も回復し、見事賊討伐に成功しています。
こうしてティムールがインドに到着した頃、ピール・ムハンマドは洪水に遭って非常に危険な状態になっていましたが、祖父が合流した後はおおむね順調に進軍しています。
デリーでは破壊・略奪・住民の虐殺といったお決まりの悪行をしてます。そもそも「異教徒との戦いだからおk」という大義名分だったからでしょうね。現在の研究者たちも、「ティムールのインド侵攻は政治より宗教的な意味が強かった」としています。
ティムールは、自分が価値を認めた者や大人しく降伏した者には比較的寛容でしたが、少しでも反抗の兆しが見えれば容赦しないというスタンスを持っていました。インド侵攻はそれが顕著になっていますね。