25万の豊臣軍による九州征伐の後、秀吉によって肥後の国統治を任された佐々成政。
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佐々成政の生涯|信長の側近から大名へ 最期は秀吉に敗れた反骨の戦国武将
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秀吉の陰謀だったのか。
それとも読み通りだったのか。
成政が国人たちに一揆を起こされ、その責で自害をさせるや、
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戦国末期の肥後国人一揆|成政が切腹に追い込まれたのは秀吉の策略か
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肥後国統治の後任として遣わしたのが加藤清正と小西行長であった。
秀吉子飼いの中でも武闘派の筆頭として知られる清正と、もともとは商家の出で武力よりも外交力で知られる行長。
両者の衝突が、避けられるハズもなかったのである――。
エリート意識

◆もしも肥後を加藤清正と福島正則に治めさせていたら、豊臣政権はどうなっていたのだろう――。
そんな妄想を抱いてしまうほど、この配置はマズかったのでは……と考えさせられてしまう清正と行長の肥後統治でした。
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加藤清正の生涯|秀吉期待の子飼い大名は大坂の陣を前に不可解な最期
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小西行長の生涯|商人からキリシタン大名へ 秀吉に重用された異色の出世武将
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バランス感覚に長けた秀吉が、両者の資質を見抜けないなんて考えにくいですし、それとも反りが合わないと知っていたからこそ、同じ場所で競わせたんでしょうか。
取り次ぎ

◆九州を制圧し、ほとんど天下人となっていた秀吉さん。
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豊臣秀吉の生涯|足軽から天下人へ驚愕の出世 62年の事績を史実で辿る
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いつの時代も権力というのは人の判断能力を奪ってしまうのでしょう。
怖いです。不安です。三成が危険です。
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