大河ドラマなどの戦国作品で、豊臣秀吉の親友として描かれることが多い前田利家。
そのイメージは史実とどこまで一致するのか、関係性を振り返る。
律儀な「おさなともだち」
前田利家は天文七年(1538年)、尾張の荒子村(名古屋市中川区荒子町)で生まれた。
父・前田利春(利昌)の四男であり、幼少の頃から織田信長に出仕。
信長とは歳も近く、単なる主君と家臣を超えた関係性が囁かれることもあるが、永禄二年(1559年)、利家は突如出仕停止の処分をくだされる。
信長お気に入りの茶坊主・拾阿弥(じゅうあみ)を斬殺してしまったのだ。
むろん利家には、斬るだけの理由はあった。
拾阿弥が、利家の大切な笄(こうがい)を盗んだり侮辱を浴びせるなど、子供じみた嫌がらせを続けた結果、利家の堪忍袋の緒が切れ、拾阿弥を斬ってしまったのだ。
「笄斬り」と呼ばれるこの一件。
詳細は別記事「笄斬りで前田利家は出仕停止」に譲るが、いったい前田利家はどうやって織田家へ復帰できたのか。

前田利家/wikipediaより引用
永禄三年(1560年)桶狭間の戦いに勝手に参戦して3つの首級。
さらに永禄四年(1561年)には森辺の戦い(森部の戦い)で「首取り足立」の異名を持つ足立六兵衛を討ち取り、信長に許された。
つまり約2年間も謹慎は続いたわけで、その間、何かと不都合だった時期に秀吉から協力を得ていたことが想像できる。
豊臣秀吉は遺言書の中で利家のことを「おさなともだち」と記し、かなり若い時代から付き合いがったことを彷彿とさせ、さらにはその性格を律儀と評価しているのだ。
今川義元に攻められ絶体絶命の状況でも信長から離れなかった利家の忠義を褒めているのだろう。
両者が、旧知の仲であったことは間違いなさそうだ。
利家の実娘・ごうが秀吉の養女に
織田家への復帰を認められた前田利家。
その後は斎藤龍興の美濃攻略を始め、伊勢北畠氏や近江浅井氏、さらには越前朝倉氏などとの戦いで武功を重ね、信長馬廻衆のエリートである「赤母衣衆」の中でも出世頭に躍り出る。
天正三年(1575年)、柴田勝家が越前一国を任せられると、利家は、勝家を監視する目付役となった。
目付役には不破光治と佐々成政もいて、彼らと共に「府中三人衆」と呼ばれるようにもなる。
そしてこの年、秀吉と利家の関係が特別だと示すできごとがあった。
利家の実娘「ごう(通称:豪姫)」が秀吉の養女とされたのだ。
天正元年(1573年)に生まれたこの実娘は、正妻まつ(芳春院)との間にもうけた四女であり、いくら子沢山とはいえ、生まれて間もない数え2歳の娘を養子とするのはやはり特別。
秀吉の正妻である寧々とまつが、以前から親しい間柄だったとする関係性も裏付けている。
ただし、豪姫の生涯が幸せだったかどうか?と問われれば判断に難しい。
秀吉は豪姫を非常に可愛がり、大切に育てたそうで、実際、豪姫には豊臣五大老に選ばれた宇喜多秀家へ嫁がせている。
豊臣政権では最高の若手のホープである。
しかしだからこそ関ヶ原の戦い後は苦難の道となった。
西軍に属して敗戦の憂き目に遭った宇喜多秀家は、戦後、八丈島への島送りとなり、そのまま本州へ戻ることは叶わなかったのだ。
話を天正十年(1582年)に戻そう。
賤ヶ岳の戦いで勝家を裏切った?
天正十年(1582年)6月、京都で本能寺の変が起き、すぐさま秀吉は明智軍を撃破。
清洲会議を経て、織田家における権力闘争は激化していく。
このころ前田利家は、柴田勝家の北陸方面軍に属したまま、同エリアで領国経営に携わっていた。
それだけに天正十一年(1583年)に起きた「賤ヶ岳の戦い」は複雑な心境であっただろう。
柴田勝家と豊臣秀吉がぶつかったこの戦い、一説には「前田利家の裏切りにより柴田勝家は負けた」とも指摘される。
前田軍が、合戦の途中で戦場を放棄したため、軍事勢力の均衡が崩れ、一気に秀吉軍が勝ったというものだ。
さすが親友同士の二人。
利家が便宜を図ってのことであろう。
そんな風に語られることも多いが、前田利家の近習である村井長明が「謀反とされるのは納得できない」と反論している。
前田利家と佐々成政を比較して、後に利家が加増されていることから「事前に裏切りが決まっていた」という結果ありきの話で、何も証拠はないというのだ。
そもそも前田家は、賤ヶ岳の合戦で多くの家臣が討ち取られ、また秀吉軍の首を取っている。
事前に裏切りが決まっていたら「そこまで激しく戦うのか?」という状況であり、利家も家臣から「勝家の首を取って秀吉へ渡せばどうか?」と提案され、それを退けている。
ではなぜ秀吉は、戦後、利家を加増させたのか。
それは利家の嫡男である前田利長が織田信長の娘を妻にしている織田家の姻戚であり、前田親子を自身の陣営にすることで織田家内での権力争いを有利に進めたかったのでは?と指摘されている。
摩阿姫を養女ではなく側室に
天正十四年(1586年)三月、前田利家は従四位下・権少将に任ぜられ、秀吉が名乗っていたことで知られる「筑前守」を受領した。
その前年、利家は実娘を秀吉の側室に出している。
加賀殿と呼ばれる三女の摩阿姫だ。
養女ではなく側室。
元亀三年(1572年)生まれであるから、養女の豪姫とは一歳しか変わらない。
そんな友人の娘を側室に入れるという感覚、現代人には受け入れがたい印象もあるが、摩阿姫はちょうど賤ヶ岳の戦いで婚約者を失っており、利家や秀吉としては両家の結びつきを強める政治的意図もあったのだろう。
ただし、彼女もそのような関係は望んではいなかったようで、後に側室の座を辞している。
秀吉の死後に万里小路充房(までのこうじみちふさ)と結婚して、病苦と生活苦に苛み、その後は病死となった。
話を利家と秀吉に戻そう。

豊臣秀吉/wikipediaより引用
利家は天正十四年(1586年)の九州征伐や、天正十八年(1590年)の小田原征伐にも参戦して、文禄・慶長の役では肥前名護屋に駐留。
徳川家康と共に秀吉の補佐をしながら、茶や能、花見などを通じて顕密な関係を保ち、文禄三年(1594年)四月には従三位権中納言へと昇進を果たした。
翌文禄四年の秀次事件に関連して出された文書では秀吉の宿老筆頭格として、あるいはその後、豊臣秀頼への忠誠を誓った起請文では傅役として。
豊臣五大老の中で、徳川家康に対抗できる存在として重用されていたのである。
しかし、慶長三年(1598年)に秀吉が亡くなると、その翌慶長四年(1599年)閏三月三日、その後を追うようにして利家も没してしまった。
場所は大坂城。享年62だった。
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最終的には従二位権大納言まで昇進するも、秀吉の死後翌年に命運尽きてしまった利家。
やはり両者の関係は特別であり、現代なら「親友」と称して良さそうな間柄だった可能性は否定できないだろう。
参考書籍
大西泰正『前田利家・利長』(2019年4月 平凡社)
黒田基樹『羽柴秀吉とその一族』(2025年5月 KADOKAWA)
『歴史読本』編集部『戦国を行きた女101人』(2014年6月 KADOKAWA)
太田 牛一/中川太古『信長公記』(2013年10月 KADOKAWA)
谷口克広『織田信長家臣人名辞典』(2010年10月 吉川弘文館)
【TOP画像】前田利家像 出典:Wikimedia Commons(CC BY-SA 4.0)
