本日放送のNHK大河ドラマ『豊臣兄弟!』では、いよいよ歴史の大きな分岐点となる「本能寺の変」が描かれます。
一体どのように描かれるのか、気になる人も多いことでしょう。
本能寺の変と言えば、天正10年(1582年)、家臣であった明智光秀は、京都本能寺に滞在中の主君・織田信長・信忠父子を討ち、そのわずか13日後、自らも山崎の戦いで敗れて命を落とした、とされています。
日本史の中でも最も知られた事件の一つでありながら、真相は多くの謎に包まれており、いまもなお日本史上最大のミステリーと呼ばれています。
なぜ光秀は信長を討ったのか、という疑問に対しては長年にわたりさまざまな説が唱えられ、多くの研究者や歴史ファンを魅了しています。
しかし、明智光秀に関する著作の多い窪寺伸浩氏はこの事件に一つの疑問を投げかけています。
「本能寺の変後、なぜ京の人々は、信長ではなく光秀のために初盆の供養を行ったのか」

明智光秀/wikimedia commons
これを手がかりに描かれるのが、窪寺氏の新刊『光秀と秀吉の十五年軍記』(あさ出版)です。
以下の本文よりご覧ください。
京の人々が残した、もう一人の明智光秀
本能寺の変からまもない初盆、京の人々は信長ではなく、光秀のために供養を行った──。
私は、この伝承こそが「本能寺の変」を考えるうえで重要な手がかりになると考えています。
もし光秀が、天下を狙うためだけに主君・信長を討ったのならば、なぜ京の人々は光秀の死を嘆いたのでしょうか。
人々は実際に戦乱の中を生き、誰が都を守ろうとし、誰が戦を起こしたのかを見ていました。
その人々の記憶が、光秀を供養したという伝承として残されたのだと考えます。
「本能寺の変」の真実とは
歴史(正史)は、常に勝者の側にあり、敗者は神話や伝説、物語などの形式をとって、その歴史の「真実」を語り、残そうとします。
信長を討った光秀は、本当に天下人になりたかっただけなのか?
京の人々は、なぜ光秀を初盆に供養したのか?
その問いの真実は、今も明かされていません。光秀は思想家でも、詩人でも、また、西洋型の政治家でもありません。その言葉の多くは史料として残されていないのです。
もちろん、発された言葉も多くあったはずですが、そのほとんどは抹消されてきたと考えられます。
これは、その言葉を残すこと自体が光秀に与する者として、排除や除外されることを怖れたからです。
そして、光秀の起こした本能寺の変、つまり信長を殺害し、その悪逆を止めることも、歴史の勝者たちによって、その真実を歪められ、矮小化されてしまったのです。
光秀自身の評価も、まさに百八十度変わってしまいました。
そのため、令和の今日まで、光秀は「裏切り者」「謀反人」の汚名を着せられたままと言えるのでしょう。
光秀の死後、百二十年あまりが経った後、光秀の主要な拠点であった京都・福知山において、地震火事などの自然災害が度々発生しました。
人々は、それを光秀の祟りであると認識し、「御霊神社」を建て、これを祀ります。
百二十余年も経て、光秀の祟り、つまり光秀が正当な評価を得られないが故に「正しく祀れ」という霊的な示威行為を感じられるほど、光秀の存在は、本来大きかったと考えられます。
現代に伝わる光秀の思い
光秀は信長の政治を「天下の妨げ」「悪逆」などと糾弾し、「天下布武」ではなく「天下静謐」という理想を掲げて挙兵しました。
本能寺の変を一日の事件として終わらせるのではなく、その後の人々の暮らしの中に残された伝承や記録に目を向けてみます。
すると、本能寺の変後、光秀が「京畿将軍」として都を守ろうとしたこと、京を戦火から守るために戦場を移そうと考えたこと、そして敵味方を区別せずに供養しようとしたことなどから、従来の光秀とは異なる人物像が見えてきます。
大河ドラマなどを通して「本能寺の変」に注目が集まる今だからこそ、京の人々によって伝承された光秀の思いを考えると、これまでとはまったく違う戦国時代のようすが浮かび上がってくるはずです。
歴史には、勝者によって語り継がれた物語があると同時に、語られなかったもう一つの歴史があると考えます。
「なぜ、京の人々は光秀を供養したのか」
その問いに向き合うことで、本能寺の変の真実に近づくのだと思います。

『光秀と秀吉の十五年軍記』(→amazon)
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