豊臣秀長の肖像画

豊臣家

天王山から始まった豊臣の天下|羽柴秀長が明智との戦いで重視した本当の理由とは?

「豊臣家の天下」はいつから始まったのか?

皆さんご存知のとおり天正10年(1582年)6月の本能寺の変、そこからの中国大返し、そして山崎の合戦における勝利が全ての起点。

この山崎の合戦で、注目しておきたいのが“天王山”です。

羽柴秀長(豊臣秀長)と黒田孝高(黒田官兵衛)が共に奪取し、陣を敷いたとされる天王山。

現代では「勝敗や運命が決まる重大な局面」をあらわす比喩表現の由来でもあり、ここでの戦いを制したから合戦に勝利をもたらしたとして、秀長、黒田が名を挙げたと見る向きもあるようですが、ことはそう単純ではなかったと考えています。

豊臣秀長の肖像画

豊臣秀長/wikimedia commons

 

天王山の軍事的な重要度は低かった

私自身、過去に天王山に上ったことがあり、確かに山頂からは周囲をよく見通せます。

その一方で、そこから下って敵陣に攻め込むとなると、距離があり、効率が悪い。

つまり、実は、天王山の軍事的な重要度は低かった――これは、私だけでなく、多くの研究者たちの一致した見解です。

明智方も同じ認識を持っていたようで、私がまとめた史論『異聞・光秀に成り損ねた男たち』(あさ出版公式サイト)でも述べたように、明智勢は当初、天王山をとることを敢えて放棄しています。

『異聞・光秀に成り損ねた男たち』(あさ出版)の書影

『異聞・光秀に成り損ねた男たち』(→amazon

これは羽柴勢に占拠させ、軍事的に価値のない場所に兵力を割かせることで、自軍との圧倒的兵力差を少しでも縮めようとしたのではないかと推察されます。

ところが、羽柴軍がそこに秀長、黒田という有力な軍勢を置いたことで、明智方の松田政近がやはりこの山には意味があったのではないかと、1,000人ほどの軍勢を率いて向かいます。

ですが、多勢に無勢。瞬時に蹴散らされます。

もっとも明智の軍勢は16,000人とされていますから、この戦い自体、大勢に影響を及ぼすものではありません。

では、なぜ秀長、黒田は、天王山に上ったのか。

理由は2つあると考えます。

1つは、合戦の場が物理的に狭かったからです。

羽柴方には、明智方の倍以上である、40,000人が集結したと言われています。戦場で、自軍の機動性を上げるため、天王山に上らせたわけです。

 


天王山で秀長の視線の先にあったものとは

そして、もう1つ、これが非常に重要な理由だと推察されるのが“羽柴方の先鋒”です。

中川清秀、高山右近、池田恒興らは、もともと摂津の国を束ねていた荒木村重の家臣でした。

荒木村重の浮世絵

荒木村重/wikimedia commons

荒木村重が織田信長との戦でいよいよ負けるとなったとき、これは諸説ありますが、中川、高山、池田らが織田側に下る手助けをしたのが光秀であり、彼らは光秀に恩があるとも言われています。

事実、彼らは、山崎の合戦の前までは、明智の与力大名、すなわち配下の大名でした。

ですから、秀長、黒田が天王山に陣を敷いたのは、明智と明智に近い武将たちを戦わせて、すなわち豆殻で豆を煮つつ、万が一、中川清秀や高山右近たちが明智方に寝返ったときに討つための兵力として温存されていた、そのような意味合いがあったように思います。

なお、現存する史料からは、光秀と秀長の接点を確認することはできません。

 

秀長による天王山の奪取から豊臣の天下が始まった

実際には、彼らが寝返ることはなく、山崎の合戦はわずか3時間で決着。

羽柴方の圧勝で終わり、かつ、天王山で戦いが小規模なものであったことから、この山の軍事的な重要性が疑問視されているわけです。

しかし、秀長、黒田はほとんど戦をしなかったものの、彼らが天王山にいたからこそ、明智の与力大名たちが寝返ることなく、短時間で戦が終わったという見方もできます。

その意味では、やはり秀長たちが天王山を制したことは、この合戦での羽柴方の勝利、そしてのちの豊臣の天下にとって大きなポイントだったと言えるでしょう。

後年「公儀については秀長に、内々については千利休に」と言われるほどの影響力を持つ秀長ですが、すでにこの時代から、派手ではないが要所を抑える、ある意味“秀長らしい役割”を担っていたことがうかがえます。


参考書籍

窪寺伸浩『異聞・光秀に成り損ねた男たち』2025年8月 あさ出版(→amazon
窪寺伸浩『明智光秀の原像~史論としての「明智軍記」』2025年8月 あさ出版(→amazon

【TOP画像】豊臣秀長/wikimedia commons

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窪寺伸浩

窪寺伸浩(くぼでら・のぶひろ) クボデラ株式会社代表取締役。昭和36年、東京都生まれ。東洋大学文学部卒。 歴史分野では主に明智光秀に関する研究・執筆を行い、あさ出版より 『異聞・光秀に成り損ねた男たち』、『明智光秀の原像 ― 史論としての『明智軍記』』などを刊行している。 ◆国立国会図書館データ https://id.ndl.go.jp/auth/ndlna/00796804

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