羽柴秀長の家臣といえば?
真っ先に思い浮かぶのが藤堂高虎でしょう。
築城の名手にして、主君を七度替えたと語られる出世人であり、大河ドラマ『豊臣兄弟』でも秀長が信頼を寄せる巨漢の家臣として描かれています。
しかしあれだけ目立つ高虎も、秀長家臣団の筆頭家老ではありません。
では、いったい誰が?
というと、ドラマの時代考証を担当している黒田基樹氏は桑山重晴を挙げ、別の研究者・和田裕弘氏は横浜一庵を挙げるなど、異なる人物が候補になっており、実は謎多き家臣団とも言えるのです。
大和・紀伊・和泉あわせて百万石もの大大名だった秀長なのに、なぜそれほどの謎があるのか。

豊臣秀長/wikimedia commons
羽柴秀長の家臣団を見てみましょう。
秀吉家臣との区別が曖昧
羽柴秀長の家臣団に謎が多い理由は単純。
御家が滅んでしまったからです。
後継者・羽柴秀保の死去により御家は断絶しており、他大名のように史料が残らなかった。
ゆえに、秀長の家臣は秀吉に預けられた与力なのか、それとも秀長の直臣なのか、区別がつかない家臣すら多い。
その一例が、秀吉の出した朱印状です。
秀吉は、方広寺の大仏を建造するにあたり、藤堂高虎や羽田正親に対して材木の調達を命じたのですが、このとき彼らの主人である秀長を飛び越し、直接、秀吉から司令が飛ばされているのですね。

豊臣秀吉/wikimedia commons
こうした特殊な事情を踏まえ、秀長家臣団の属性を大きく三種類に分けると、以下のようになります。
①秀吉から秀長へ付けられた「重臣」……桑山重晴・尾藤頼忠・吉川平助
②秀長の直臣……小堀正次・横浜良慶・藤堂高虎・杉若無心・福智長通・本田利朝・羽田正親・井上高清・疋田就長
③秀吉から秀長へ付けられた「与力」……池田秀雄・加藤光泰・多賀秀家・小川祐忠・青木重吉・伊藤祐時
出自はバラバラ。
柴裕之氏の著書『羽柴秀長 秀吉の天下を支えた弟』によれば、杉若無心はもと丹羽長秀の家臣で、多賀秀家は堀秀政の弟だといい、他家から流れてきた者も少なくありません。
秀吉から付けられた「①重臣」と「③与力」の違いは何なのか?
重臣は、もともと秀吉の下にいた家臣が秀長の直臣として完全移籍した人のことで、与力は、あくまで秀吉が主人のまま秀長に預けられた“出向社員”のような立場です。
『多聞院日記』では秀長の家臣団を「与力・大名・小名」と表現しており、当時からそう認識されていたことを示しています。
では、秀長家臣団の中で最も有力者だったのは誰か?
所領から判断してみましょう。
筆頭家老は桑山重晴か横浜一庵か
秀長家臣団の所領は如何ほどだったのか?
黒田氏の著書『羽柴秀長とその家臣たち』で整理された数字は以下の通りです。
桑山重晴……3万2000石
伊藤祐時・加藤光泰……2万6000石
藤堂高虎・横浜一庵(良慶)・多賀秀家……2万石
杉若無心……1万9000石
本田利朝……1万5000石
尾藤頼忠……1万3000石
小川祐忠……1万2000石
吉川平助……7000石
小堀正次・井上高清……2000石
頭ひとつ抜けているのが桑山重晴ですね。
秀長より一回り以上年長となる大永四年(1524年)生まれで、ドラマ時代考証の黒田氏が「筆頭家老」と位置づける武将です。
その経歴を見ると納得。
但馬時代は竹田城、紀伊・和泉を得ると岸和田城、次いで和歌山城……と、秀長が新しい領地を得るたび真っ先に送り込まれているのです。留守を預かる番頭役と言えましょう。

しかし、前述の通り和田裕弘氏は別の人物を筆頭と見ています。
それが横浜一庵(良慶)です。
藤堂高虎と同じ2万石を所領する人物で、大蔵卿法印という法体の官職名から「一庵」と呼ばれました。
天文十八年(1549年)生まれで、近江国坂田郡横浜(滋賀県長浜市)を名字とする国衆出身。
なぜ、この一庵が筆頭家老の候補なのか?
和田氏が著書『豊臣秀長 「天下人の賢弟」の実像』の中で根拠の一例としているのは、秀長の死に際して秀吉が下した指示です。
秀長の死が迫ると、後事のことを一庵に対して言い渡し、死後には「何もかも一庵の指示に従え(万事各一晏法印次第にあい随わるべし)」と命じました。
一庵にとってそれは「無比類名誉」であると多聞院英俊は評しており、所領では桑山が上でも、実務の頂点には一庵がいたという認識もできそうです。
誰が筆頭家老だったのか、今も結論は出ていません。
一方、藤堂高虎については見方が一致しています。秀長の軍事行動と外交で中心的な役割を担った人物、という点です。

領地を守らせるより、主君のそばに置いておきたい人材だったのでしょう。
秀長が面目を失った吉川平助処刑事件
秀長家臣団を語るうえで外せない事件があります。
吉川平助処刑事件です。
所領7000石で大身の身ではありませんが、異色の経歴を持っていて、元々は近江長浜の有力商人出身であり、水運に長けた人物だったと伝わります。
商人から武家へ、という流れは秀吉に仕えた小西行長を彷彿とさせますね。
紀伊を得た秀長は、紀伊湊から伊勢大湊までの海運について、この吉川を船奉行に任じていました。天正十四年(1586年)には、同海路で徳川家康を送り届ける役割もあったほどです。
さらに天正十六年(1588年)に秀長が熊野地域の大半を攻略すると、吉川は大将の一人を務め、山奉行として現地の材木を管理することにもなりました。
しかし、この材木が、命取りとなります。
同年12月5日、吉川平助は突如捕縛され、奈良西大寺で処刑されるのです。
理由は、熊野山から伐り出した木材を勝手に販売し、不当な売上を上げていたから。
死後、700枚もの金が残されていたことが発見され、諸大名にも処刑の一報は伝わり、島津義弘が国元の伊地知重秀へ宛てた書状にこう記されています。
吉川平助が首を刎ねられ、京都で晒された。材木が届かなければ一大事だ。
紀州にて山奉行吉川平介と申候は、相届かざる儀これあるの由候て、首をはねられ、洛中においてさらされ候、是も材木不料配の故候
義弘が切羽詰まったように「一大事だ」としているのは、吉川の処刑が諸大名への見せしめと考えられたから。
大仏殿用の材木をきちんと調達しなければならない、ということです。
ただし、この話には何やらキナ臭い一面もあります。
熊野の材木伐採は、そもそも秀吉が進めていた大仏建造のためでした。
命じたのは秀吉であって、秀長ではない。
熊野材木の処分権も秀吉が握っている。
ゆえに大仏用材の調達は秀長を介さず秀吉が直接平助に命じたもので、責任という意味ではむしろ秀吉に帰せられるべきものだと指摘する研究者もいます。
黒田氏も、不当に金儲けをしているという理由は表向きにすぎなかった可能性を示唆しており、真相は判明していないとの考え。
問題は、秀長が大きく恥をかかされたことでしょう。
自分の重臣が、断りもなく兄に処刑されたのですから秀長にしてみれば「勝手に何してんだよ!」というところで、『多聞院日記』によれば「天下の面目を失う」事態となりました。
ちなみに、処罰の対象は吉川本人だけで、家族に累は及んでいません。
子の二代目平助はそのまま大和羽柴家の家臣として存続し、天正十八年(1590年)の熊野那智山権現社修造では奉行を務めた記録が残されています。
11年で解体した家臣団
秀長家臣団はその後どうなったのか?
最終的に固まったのは、大和を加増された天正十三年(1585年)のこととされ、そこから先は驚くほど短くなります。
天正十九年(1591年)に秀長が死去すると、養子の羽柴秀保が跡継ぎもないまま文禄四年(1595年)に、わずか17才で亡くなってしまったのです。
そこで秀吉は、わずか2歳だった羽柴秀次の子に大和羽柴家を継がせることを決め、一時はその準備も順調に進んでいました。
ところが、です。その最中の同年7月、秀次事件が起きてしまうのです。

豊臣秀次/wikimedia commons
羽柴秀次が秀吉によって自害へ追い込まれ、家督継承の話も消滅し、大和羽柴家は断絶、家臣団も解体されました。天正十三年から数えて、足かけ11年のことです。
いったい秀長の家臣団はどこへ消えてしまたったのか?
羽田正親……秀次の家臣となっていたため、事件に連座して自害
藤堂高虎……文禄四年(1595年)6月に大名へ
池田秀雄……秀次事件後の領国配置のなかで大名へ
桑山重晴ほか……秀吉の直臣として所領を安堵され、郡山領を得た増田長盛の与力となる
横浜一庵・小堀正次・井上高清……大和と紀伊の領国統治に引き続き従事
家は消えましたが、人はほとんど死んでいません。
特に藤堂高虎の扱いは格別で、

藤堂高虎/wikipediaより引用
最終的に大名へ引き上げられているのは、秀吉がその能力を高く買っていたからとも指摘されます。
しかし、筆頭家老候補のもう一人、横浜一庵の最期は突然でした。
文禄五年(1596年)閏7月12日夜半に起きた慶長伏見大地震が起きたとき、たまたま伏見城の矢倉に詰めており、建物が倒壊して圧死してしまうのです。
享年47。
秀長の死後、郡山豊臣家の一切を任された男にしては、あっけない幕切れとなってしまいました。
まとめ
最後に、秀長家臣団を整理しておきましょう。

・家が断絶して史料が乏しいため、与力と直臣の線引きが難しい
・譜代がおらず、兄からの配属と自前の寄せ集めで作られた
・筆頭家老は誰なのか?見解は分かれている
・藤堂高虎は秀長の側で軍事と外交で支えていた
・重臣の吉川平助は秀吉に処刑され、秀長は天下の面目を失う
・家臣団は足かけ11年で解体されると、多くは大和と紀伊に残った
こうして眺めてみると、秀長の立ち位置がよく見えてきます。
百万石を任され、20人を超える重臣を抱えながら、家臣団は一から自前で作ったものではない。
半分近くは兄から預かった人材で、その兄は主人である秀長を飛び越して家臣に直接指示を出し、重臣を断りもなく処刑する。
天下人の弟だからこそ、辛抱を強いられる立場に置かれました。
それでも、彼が組み上げた組織は主家が消えた後も生き延びます。
桑山以下の重臣は大和・紀伊に留まって増田長盛のもとで領国統治に携わり、藤堂高虎はその後35年も生き永らえて徳川政権を支え、後世に大きく名を残した。
家は11年で消えても、人は残った。
羽柴秀長の遺産とは、領地でも城でもなく、人材そのものだったと言えるのでしょう。
なお、明智光秀や織田信長の家臣団については以下の記事をご覧ください。
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豊臣政権を支えた羽柴秀長の家臣団|藤堂高虎の他にどんな武将がいた?
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光秀が率いた明智家臣団|なぜ利三や秀満は最期まで光秀に付き従ったのか
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【参考文献】
- 黒田基樹『羽柴秀長とその家臣たち 秀吉兄弟の天下一統を支えた18人』(2025年10月 KADOKAWA・角川選書)
- 和田裕弘『豊臣秀長 「天下人の賢弟」の実像』(2025年10月 中央公論新社・中公新書2877)
- 柴裕之『羽柴秀長 秀吉の天下を支えた弟』(2025年9月 KADOKAWA・角川選書679)
- 『多聞院日記』『駒井日記』『天正記(輝元公上洛日記)』/熊野那智大社文書


