左から小西行長・安国寺恵瓊・石田三成/wikipediaより引用

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戦国武将の価値は死の瞬間に決まる? 西軍「三成・行長・恵瓊」の最期に注目

人間、切羽詰まったときにこそ本性が出るとか出ないとか。

その最たる瞬間が「死」でありましょう。

慶長五年(1600年)10月1日に斬首刑となった、石田三成西行長・安国寺恵瓊(えけい)の三人にも、処刑直前のエピソードがいろいろ伝わっています。

彼らは関ヶ原の戦いにおける「敗軍の将」ですから、さぞひどく扱われていたかと思えばそうでもありません。

三成だけは日頃から恨みを買ってしまっていたせいか、捕まって晒しものになっていたところに罵詈雑言を浴びせられたという話が残っていますけども、この三人の最期は見事なものです。いろんな意味で。

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三成「上様はこの世に一人!」

まずは三成のフォローとも言えるエピソードに注目してみましょう。

家康は三人を捕らえたとき「一応、皆大名なんだし、ボロい服のまま処刑するのは体面が悪いから、新しい着物をくれてやるように」と言ってその通りに手配したのですが、三成だけはこれをよしとしませんでした。

服を送られた事自体が気に障ったのではなく、使者が「上様からです」とのたまったのが気に食わなかったというものです。

「上様っつったら秀頼様のことだろ! いつどこの誰が狸を上様なんて呼び始めたんだこの野郎!!」(超訳)

これだけだとフォローにならないのでもう二つ。

三成には、捕まった後も首を離れる直前まで再戦を諦めていなかったらしきエピソードがいくつかあります。

家康の家臣・本田正純に『よくもまあ生き恥をさらしている事よw』(超訳)とディスられたところ、『自害なんてケチくさい端武者のすることですけどw』(超訳)と返した」とか。

あるいは「処刑直前に水を欲しがったが、あいにく用意がなく、刑吏が『干し柿ならあるが、食べるか』と聞いたところ『痰の毒になるからいらん』と断った」とかですね。

自害の件は、天国の大谷吉継に睨まれてたんでは?と心配になりますが、干し柿の話は三成の粘り強さが垣間見えて、彼も武将だったのだなあという感慨がありますね。

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商売人・行長はキリシタンとして天へ

次に小西行長の最期を見てみましょう。

彼の実家は堺商人で、小さいころ岡山の商家へ養子入りし、戦国の暗殺マスターこと宇喜多直家に「お前デキそうだな」と気に入られて武士になりました。

取り立てた人は違いますが、三成と同じような経緯をたどってきているんですね。

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国内の武将としては派手な活躍はありませんが、朝鮮の役では目立っています。

和平交渉に失敗して打首になりかけてはいるものの(それだけで充分大事ですが)、前田利家淀殿が助命を嘆願したそうですから、常日頃から評判の良い人ではあったのでしょう。

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彼は商人出身かつキリシタン大名であったという意味でも特異な存在でした。

処刑直前にも、仏典を置かれる事を拒否し、イエス・キリストとマリアのイコン(聖書の重要なシーンを描いた絵)を代わりに拝んでいたといいます。

本当は死ぬ前の懺悔もしたかったようですが、同じキリシタン大名の一人だった黒田長政に頼んで断られてしまったため、諦めざるを得ませんでした。

彼もまた、最期の最期まで自らの考えを貫いたと見る事ができます。

行長が妻と子どもたちに宛てた遺言状には、以下のように記されていたとあります(1600年度カリヴァーリュ日本年報補遺『報告集』1)。

「今後は汝らはすべての熱意と心の緊張をもってデウスに仕えるよう心掛けて頂きたい。なぜならこの世においては、世の中のすべてのものが変わりやすく、なに一つとして永続するものはみられぬからである」

熱いのか冷めているのか。よくわからない行長ですが、この達観した感じはキリスト教というより無常観に近い印象もありますね。

では最後に安国寺恵瓊を見てみましょう。

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