宗谷

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不死身の砕氷船「宗谷」危険な戦火をかいくぐり戦後は南極観測へ出たタフ過ぎる船

昭和五十三年(1978年)10月2日は、海上保安庁所属の砕氷船・宗谷が退役した日です。

さいひょうせん」と読むのは海軍や海保ファンの方はよくご存じの名前でしょう。

かなり最近の話ですので、当時をご記憶の方もいらっしゃるかもしれません。

なぜそんなに有名なのか?

というと、船の寿命が「20年程度」だという頃なのに、宗谷は40年もの間、八面六臂の大活躍をしていたからです。

しかも戦時中は、幾度も沈没の危機に遭遇しながら、ついに生き残った奇跡の船とも言えます。

長く活躍していたため、功績も多く、駆け足になりますがご了承ください。

また、途中で何度か名前が変わっているのですが、この記事では最初から最後まで「宗谷」で統一させていただきます。

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ソ連から発注を受けて建造された

宗谷は昭和十三年(1938年)、ソ連からの発注で「耐氷型貨物船」として建造されました。

氷が浮いているような海でも貨物輸送ができる船という設計ですね。

当初は姉妹船が他に二隻いて、宗谷は真ん中。

しかし、この三隻は進水が遅れて、第二次世界大戦が始まる直前になってしまったため、ソ連には引き渡されません。

当然、同国とはモメ事になり、まずは直接日本海軍の所属にはなることを避け、民間の貨物船として使われています。

最初は中国周辺で食料や女工の運搬を行っていたそうです。

そもそもが軍属予定の船だったので、普通の貨物船には積まれていないソナーを搭載しており、北海道周辺の濃霧でも水深を測りながら無傷に航行できたとか。

そしていよいよ戦争が始まると、姉妹船と揃って海軍に売られそうになりました。

しかし上記の通り「北方で活動する船」という前提で作られていたため、これから戦場となる南洋の気候では使いにくいと判断されます。

もちろん、贅沢も言ってられない状況ですから、宗谷だけが海軍に入ります。

実は「宗谷」の名は海軍所属になってからつけられたものです。

由来は宗谷岬……ではなく、宗谷岬と樺太の間にある宗谷海峡からでした。

 


軍属になって最初の仕事は北樺太の調査

宗谷は横須賀鎮守府(海軍の拠点)の所属となり、横須賀を母港として活動することになります。

ちなみに、姉妹船の二隻は後に陸軍所属になりました。

こうして戦争に関わることになった宗谷ですが、そもそも重武装の船ではないため「雑用運送艦」とされます。

あまり印象のよくない名前ですね。

その名の通り物資・石炭・食料・兵士の運送や測量・砕氷など「何でもやれる船」という意味です。

軍属になって最初の仕事は、北樺太の調査でした。

そこから帰ってきて紀元(皇紀)二千六百年特別観艦式に参加し、その後サイパンへ測量・観測任務へ。

しばらくはそんな感じで、南洋での測量等を行っては内地へ帰ってくる、という状態が主でした。

アレ? 意外とラクに使いまわせるのか?

と思ってしまうかもしれませんが、もともと北半球の寒いところで航行することを前提に作られているため、南洋での活動中は船全体が蒸し風呂状態だったとか。ひでぇ。

もちろん他の船でも設計ミス……というか、居住性を無視しすぎてそういうことになってしまったものは多々あります。

宗谷の場合はその代わり(?)に測量のための装備が充実しており、技術者もたくさん乗っていてかなりの大所帯だったそうです。

これは後々生かされることになります。

 


奇跡の「被害ゼロ」が何度も起きる

1941年12月8日――真珠湾攻撃が行われたその日。

横須賀で日米開戦の報を受けた宗谷は、輸送物資を満載にして、トラック島へ向かいました。現在ミクロネシア領・チューク諸島と呼ばれているところです。

ここから宗谷の豪運伝説が始まります。

年が明けて1942年からは、南洋の測量と物資輸送で内地を往復。

つまりやってることはあまり変わりません。

しかし、見知らぬ海で他の船が座礁しないように、安全なルートを調べたり、水質調査をして真水を確保したり、通信機器を設置して離れた島同士でも連絡を取れるようにするなど、大切な役割を果たしました。

縁の下の力持ちといった感じですね。

もっとも、既に開戦した後なので、ときには敵に見つかって攻撃されることもありました。

しかし奇跡の「被害ゼロ」が何度も起きています。

太平洋戦争の中でも悲惨な戦いとして知られる、ミッドウェー作戦やガダルカナル島の戦いでも、最前線にはいなかったとはいえ、宗谷は被害ゼロでした。

魚雷を当てられたのに、不発に終わったことさえあります。

どういうことなの???

また、燃料や補給のためにとある島へ寄ろうとしたとき、現地のお偉いさんに「そこに行っても補給はできないよ」といわれて進路を変えたこともありました。

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