宗谷

明治・大正・昭和

不死身の砕氷船「宗谷」危険な戦火をかいくぐり戦後は南極観測へ出たタフ過ぎる船

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初めての座礁後、自ら浮かび上がっていた

そんな不死身の宗谷も、実は一度だけ沈みかけたことがあります。

1944年2月17日のトラック島空襲です。

このとき宗谷も標的となって座礁し、副艦長を含めた9人が戦死、艦長も重傷という危機的な状況に陥ります。

代わりに指揮を執った人が総員退鑑と機密書類の処分を行うほどでした。

しかし、二日後に様子を見に来た船員は文字通り仰天する光景を目にします。

宗谷が再び浮き上がっていたのです。

満潮になって水位が増したため、いつの間にか座礁から自力で回復していたのでした。

船員は大急ぎで他の人にも知らせ、再び宗谷を動かしたといいます。

しかし、修理や改装・武器の増設を行ったものの、一度相当のダメージを受けたためか、以来、たびたびボイラー故障を起こすようにもなりました。

人間でいえば「大病から回復しながら後遺症に悩まされる」というところでしょうか。

 


魚雷が船の下を潜っていくなんて!

1945年には輸送任務に復帰。

この頃になると輸送船は決死隊とほぼ同義で、ほとんどの船が沈められた海域さえありましたが、それでも宗谷は生き残りました。

この年の6月に魚雷を撃たれときは、魚雷のほうが宗谷の下を通り抜けていったといいます。ちなみに、他の輸送船は魚雷が当たっているので、相手の船や操縦員がポンコツだったわけではありません。

宗谷は他の護衛艦とともに反撃し、魚雷を撃ってきた潜水艦を撃沈することにも成功しています。

回避高い上にカウンターでしとめるとか、海外の方が想像するニンジャのようです。

8月には横須賀に戻り、ドック入りしている最中に戦艦・長門及び、病院船・氷川丸とともに空襲を受けました。

このとき、敵飛行機に落とされた燃料タンクが宗谷の機関室真上の天窓で割れ、ガソリンが機関室内で蒸発するという一触即発の事故が起きています。

しかし、ドック入り=機関停止中なので爆発には至りませんでした。どうなってるんだ一体。

その後は北海道方面に向かい、そこで終戦を迎えます。

 


外地からの日本人引揚船として活躍する

8月末に一度連合軍へ引き渡された宗谷。

そもそもが戦闘目的の船でないせいでしょうか、同年10月には大蔵省へ返還されます。

そして今度は、外地の日本人を載せて帰ってくる、引き揚げ船として働くことになります。

中国・朝鮮半島・樺太・台湾・ベトナムなどから、合計2万人前後を載せ、無事に国内へ。

この間、船内で女の子が産まれ、「宗」の字をとって「宗子(もとこ)」と名付けられるという出来事が二回あったそうです。同名の船がもう一隻あったため、各一人ずつかもしれません。

その後は一時、輸送船任務に戻ったのですが、海上保安庁に「灯台に補給するための船がほしいんだけど、作る余裕ないわ……宗谷をこっちにまわしてくれない?」(※イメージです)と言われ、大蔵省から移籍して新たな仕事に就くことになります。

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塗装や内装の変更などを経て、日本各地の灯台への補給を行いました。

灯台守からは「燈台の白姫」「海のサンタクロース」などの愛称をつけられ、親しまれたとか。

お姫様が髭の生えたサンタクロースになるのかと思うと特殊すぎる経歴ですね。

しかもその昔は南洋を駆け回ったニンジャです。

なんだ、この「ぼくのかんがえたさいきょうのひろいん」みたいな話は。

そして、一番有名なのが1956年冬からの南極観測船としての仕事でしょう。

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