大政所なか(秀吉の母)

大政所なか/wikipediaより引用

豊臣家 豊臣兄弟

大政所(なか)は秀吉や秀長の母~豊臣兄弟を産んだ女性はどんな人だった?

天正二十年(1592年)7月22日は大政所の命日です(※21日説もあり)。

豊臣秀吉の母“なか”といった方がわかりやすいかもしれませんね。

実はこの名前も本当かどうか不明なのですが、他に候補となる名称もないので本記事ではそのまま使わせていただきます。

果たして日本史上最も出世した男の母親とは、一体どんな女性だったのか。

大政所・なかの生涯を振り返ってみましょう。

大政所なか/wikipediaより引用

 


秀吉を産んだ後に再婚

なかの出生地は尾張国愛知郡御器所村(ごきそむら)、現在の名古屋市昭和区だとされます。

生まれは永正十三年(1516年)ともされ、身分の低い出自で、家族関係などははっきりしていません。

なかの妹もしくは従妹が加藤清正の母とされていますので、清正が豊臣政権で重宝されたのも頷けますね。

加藤清正/wikipediaより引用

なかは、織田家の兵だった木下弥右衛門に嫁ぎ、日秀尼(とも・豊臣秀次の母)と秀吉を出産。

秀吉と正室・ねねが恋愛結婚で結ばれたことは広く知られていますが、なかと弥右衛門は結婚すらしていなかったのでは……という指摘もあります。

身分の低い人々の間ではままある話で、その後、織田家に仕えていた竹阿弥と再婚したとされます。

では、豊臣兄弟で注目される、弟・豊臣秀長の父親は誰なのか?

弥右衛門なのか、竹阿弥か? というと、これがハッキリしていません。

もう一人いる妹の朝日姫も同様に父親は不明。

『絵本太閤記』に弥助昌吉として登場する木下弥右衛門/wikipediaより引用

なかは「とも・秀吉・秀長・朝日姫の他にも子供を産んだ」とする説すらあります。

後に秀吉が大出世を果たしたとき、なかの子供を自称する人々を処刑したという話があるからです。

しかも、処刑した理由が「なかが恥ずかしがったから」というもので……なんともモヤモヤしますが、この話が事実であれば、彼女が多くの男性との間に多くの子供を産んだ可能性は高くなりましょう。

よほどモテたか、確実に子供を産んでくれると見込まれたのか。

当時、子供は労働力であり、かつ幼少期の死亡率が高いため、「体が丈夫で出産経験がある女性との間に子を作りたい」と考える男性が多かったであろうことは想像に難くありません。

徳川家康の側室も、そういう傾向がありますしね。

いずれにせよ、母については厚遇した秀吉が、父や父方の親類について全く触れていないところからすると、関係は希薄でどうでもよい存在だったのでしょう。

秀吉は、父親に対して供養や官位の遺贈もしていません。

彼女が竹阿弥と死別した頃には、すでに秀吉も織田家に仕え始めていたため、その後は息子を頼るようになっています。

ねねとも実の親子のように仲が良かったそうです。

秀吉の妻・ねね(寧々 北政所 高台院)/wikipediaより引用

二人は、ずっと尾張弁で話していたそうですから、親近感も湧きますし、互いに落ち着く相手だったのでしょう。

 


本能寺の事件直後は長浜城から大吉寺へ

天正十年(1582年)6月2日に本能寺の変が起きると、全国の戦国武将と同様、なかの生活も激変します。

まず変が起きた直後、長浜城が明智軍に落とされると、彼女とねねは大吉寺というお寺へ逃れました。

明智光秀/wikipediaより引用

大吉寺は源頼朝平治の乱後、一時匿われたという伝説のある古いお寺であり、天下人やその家族に縁があるんですかね。

一時はかなり大規模な勢力を誇りましたが、何らかの理由で織田信長に破却されたため、当時はかなり寂れていました。

だからこそ逃げこむには適していると考えたのかもしれません。

長浜城から大吉寺までの距離は約16km。

舗装された現代の道路でも徒歩なら4時間弱かかりますので、よくこの距離を女性の足で逃げられたものです。

輿に乗っていたとしても、相当な恐怖だったでしょう。

なんせ息子の秀吉は、中国地方で毛利軍と対陣しているわけで、女性二人が絶望的な気持ちになっても不思議ではありません。

この逸話自体が創作の可能性もありますが、二人が危険な状態にあったのは間違いないでしょう。

琵琶湖対岸にある坂本城は明智軍の最重要拠点です。

その距離、約76~80kmであり、いわば目と鼻の先に潜んでいなければならず、また何時助けが来るかもわからない状態でした。

と、そこへ颯爽と現れたのが他ならぬ秀吉でした。

毛利と素早く和睦を結んだ秀吉は、その後、中国大返しと呼ばれる行軍で畿内へ戻り、信長の弔い合戦である【山崎の戦い】で光秀に完勝するのです。

中国大返しは、神のごとき速さの進軍――ではなく、最近は「普通の行軍だよね」とする考え方が主流のようですが、そもそも毛利と和睦を結び京都までやってきた秀吉の行動力が光秀を驚かせたのは間違いないでしょう。

その後、清洲会議を経て、天正十一年(1583年)に賤ヶ岳で柴田勝家を撃ち破ると、秀吉は織田家の権力掌握に成功します。

そして、なかとねねを大坂城に呼び寄せると、次の敵と対峙する準備に取り掛かるのでした。

敵とは他でもありません、徳川家康です。

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