明治39年(1906年)7月23日は児玉源太郎の命日です。
教科書には出てこないので、あまり著名な方ではないかもしれません。
しかし日露戦争を早めに終わらせることができたのは、実はこの人の考えによるもの。
名前でググったときに「天才」という関連用語が出てくるのは、司馬遼太郎『坂の上の雲』の影響かもしれません。同作では生まれながらの天才というような扱いになっていたのです。
では実際のところはどうだったのか。
その生涯を振り返ってみましょう。

児玉源太郎/国立国会図書館蔵
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徳山藩で中級武士の家に生まれ
児玉家は、徳山藩(山口県周南市)で中級武士の家でした。この藩は規模が小さ目な長州藩の支藩であり、いわば分家のようなものです。
長男だった源太郎は、順当に行けばいずれ児玉家の当主となって藩に仕えていたのでしょう。
ところが、わずか5歳のときに父親と死別という不運に見舞われます。
さすがに5歳で家督を継ぐわけにも行かず、姉婿が一度は当主になりました。この姉婿が佐幕派に惨殺されてしまい、児玉家は収入を失って貧乏生活を余儀なくされます。
それを何とか乗り切り、成長した児玉は戊辰戦争最後の一幕・箱館戦争で初陣を果たしました。
ただし、箱館戦争において、児玉の武功に関する記録は特にありません。

箱館戦争の様子を描いた麦叢録/函館市中央図書館蔵
「児玉がいる限り、日本が勝つだろう」
その後、陸軍に入り、軍人としての道を着実に進みました。
例えば、1877年の西南戦争にも参加。
明治時代初期において、不平士族の反乱を鎮圧するうちに経験を積み、いつしか軍の中でもかなりの期待を寄せられるようになっていきます。
まだ若く名門の出身でもないのに「児玉は無事か?」という電報を送られたとか、日露戦争の時にはクレメンス・メッケルに「児玉がいる限り、日本が勝つだろう」とまで言われたとか、普通の人だったら天狗になりそうなほどのベタ褒めを受けています。
しかし、児玉にはそういうことがありませんでした。
一言でいえばとにかく謙虚。
実家の困窮のためきちんとした教育を受けていないことによる引け目があったのか。
あるいは男性としては当時としてもかなり小柄なほう(150~155cm)だったことも無関係ではない?……というのは下衆の勘繰りで、当人の性質というのが一番大きいのでしょう。
日露戦争の立役者
児玉の人となりが最も顕著に出たのが日露戦争のときです。
このとき児玉は内務大臣だったのですが、対ロシア作戦を立てていた人が急死してしまい、大山巌に請われたため大臣を辞めてまで参謀次長についています。
旧軍で降格を了承したのは児玉ただ一人といいますから、身分の高さよりも「必要とされているところに行く」ことを重視していたのでしょう。
また、大山とは個人的に息も合ったようです。
苦戦中に大山が「児玉さん、今日もどこかで戦(ゆっさ)がごわすか」と惚けたことを言ったおかげで空気が丸くなったとか、妻・大山捨松が「大山が一番好きなのは、私ではなくて児玉さんですわ」と評するほどです。
一方で日露戦争に出征するにあたっては、長州出身の先輩・山県有朋を敬遠したとあり、仕事を成功させるために確固たる意思を通す一面も見えてきます。
さらに乃木希典とは親友のような間柄でした。
二人は同郷であり、西南戦争の時にも戦友で、日露戦争時には30年近い付き合いとなります。
生来謹厳で責任感の強い乃木は、西南戦争のときにも失敗で自責の念を感じ、切腹しようとしたことがあるのですが、これを止めたのが児玉です。

乃木希典/wikipediaより引用
旅順要塞での戦いに関する被害の大きさについて、国民や陸軍内から乃木に対する不信や非難の声が高まったとき「乃木でなければ旅順は落とせない」と擁護したのも児玉です。
後々児玉が亡くなったとき、乃木は大雨の中ずっと棺に付き添っていたそうです。
終生、お互いに良い戦友と思っていたのでしょう。
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