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家康の忠臣に殺されかけた?
強烈なエピソードを残した三河武士とは本多重次のことです。
気性が荒いことから通称”鬼作左”としても知られる武将であり、

本多重次/wikipediaより引用
なかが滞在する館の周りに火を放つ用意を整えていたというのです。
「ウチの殿に何かしやがったら、お前の母親を焼き殺してやる!」
というわけですが、これって予め秀吉に伝えておかないと意味がないですよね。
それに、仮に家康が殺された後でなかを殺しても、その後、家康のいない徳川軍が強大な豊臣軍を相手に勝てるのか? 下手すりゃ丸ごと潰されてしまいそうで……。
本多重次については、他にも短気すぎるエピソードがいくつも伝わっているので、後のことを全く考えていなかった可能性が大かもしれません。
そしてこうした動きに対し、秀吉の反応は二つ伝わっています。
「激怒して家康に”重次を追い出せ!”と命じた」
「”家康殿はさすがに良い家臣をお持ちだ”と笑って許した」
事が事ですし、秀吉の性格からしてどちらもありえそうな気がしますね。
秀吉の渡海を止める
朝日姫と共に輿入れして、徳川での生活が約一ヶ月続いた“なか”。
無事に大坂城へ戻ると、その後、一時は聚楽第に住んだこともありましたが、大坂城のほうが落ち着くのか、すぐに戻っています。
京より大坂の雰囲気のほうが性に合ったのかもしれませんね。
天正十八年(1590年)辺りからは、加齢のためと思われる体調不良に悩まされ、さらには朝日姫や豊臣秀長に先立たれるなど、不運が続きます。

豊臣秀長/wikipediaより引用
なかは永正十三年(1516年)生まれとされているので、年齢的には死を意識してもおかしくない年齢です。
本人もそれを自覚していたらしく
「私が生きているうちに、墓の支度をしてほしい」
と秀吉に頼んでいます。
秀吉はさっそく母のために土地を探し、お寺の建立を始めさせると、落成した頃にはすっかり元気になっていたそうです。
心配事がなくなって安心したんですかね。
そんな最中、秀吉が文禄・慶長の役における出兵を決め、再び老いた母親の心身に負担をかけます。
秀吉は当初、渡海する気満々でした。
しかし「せめて大陸に渡るなんて危ないことはしないでおくれ」と懇願する老母に逆らえなかったことも、渡海を取りやめた一因だったといわれています。
もちろん、浅野長政など家臣たちの反対もありました。
母の死に目に会えなかった秀吉
文禄・慶長の役において日本側の最前線基地だった名護屋城。
秀吉が名護屋に対陣している間、京を預かっていたのは養子の豊臣秀次です。

豊臣秀次/wikipediaより引用
当然なかの経過についても知っていたはずですが、秀吉に心配をかけまいと、なかの病状をギリギリまで知らせなかったとされています。
しかし、なかの命が尽きるほうへ向かっていることは日に日に明らかになっていきます。
それまでは、なかが体調を崩しても、祈祷をすれば早く治ったのに、このときはその兆しがみられなかったのです。
「いよいよか……」
そう考えた秀次は、急いで秀吉になかの危篤を知らせます。
秀吉は仰天し、大急ぎで名護屋を出立しましたが、なかはその当日である天正二十年(1592年)7月22日に亡くなってしまっていました。
大坂に到着してから母の死を聞かされた秀吉は、その場で卒倒するほどの衝撃を受けたといいます。
秀吉は誰に何を言われても、病死者や餓死者の報告が届けられても、朝鮮半島への出兵を諦めませんでした。
それは、母の死に目に会えなかったことを後悔した分、意固地になっていたからなのかもしれません。
なかが秀吉より長生きする可能性は極めて低いにしても、朝鮮出兵をしなければ、ほぼ確実に看取ることができたでしょうし。
もしかすると、なかの命日は秀吉が生涯で一番後悔した日なのかもしれません。

豊臣秀吉/wikipediaより引用
一方でなかとしても、息子が出世して孝行してくれたことは嬉しかったにしても、朝鮮出兵のゴリ押しを止められなかったことは悔やんだでしょう。
しかもこの三年後に秀次事件と、それに続く秀次の妻子処刑が起きています。
「もしも」の話になってしまいますが、秀次事件までなかが健在であれば、彼女が妻子の助命嘆願に動いたのではないかとも思えます。
秀次の子供は、なかにとって孫ですからね。
秀吉の養子や実子の多くが若くして亡くなっていることも含めて、何者かが豊臣家の滅亡に向けて着々と進めていたようにすら見えてきます。
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長月 七紀・記
【参考】
菊地浩之『豊臣家臣団の系図』(→amazon)
堀新/井上泰『秀吉の虚像と実像』(→amazon)
歴史読本編集部『物語 戦国を生きた女101人 (新人物文庫)』(→amazon)
国史大辞典