織田信長の子供で愚将と言えば?
やはり次男の織田信雄を思い浮かべるでしょう。
父の命令に反して攻め込んだ伊賀では逆襲に遭って敗北したり、父の死後は弟である織田信孝と対立して結果的に秀吉の台頭を許したり。
極めつけは大河ドラマ『豊臣兄弟』でも描かれた小牧・長久手の戦いですね。
劇中では、家康に何の相談もなく、秀吉と勝手に和睦を結んだことが印象深く、とにかく思慮浅くて芯がない――。
そんなイメージで描かれがちですが、秀吉と和睦を結んだのは本当にダメな武将だったからなのでしょうか?

織田信雄/wikimedia commons
実は徳川家康も動くことができず、もはや「あと一歩で滅亡では?」という窮地に立たされていた、織田信雄の苦境を見てみましょう。
9月の講和交渉は決裂していた
天正十二年(1584年)3月に始まった小牧・長久手の戦い。
実は、和睦の話は、一度ではありませんでした。
長期化の兆しが見えた天正十二年(1584年)9月にも、双方で講和の話が取り沙汰されていたのですが、同月7日に行われた交渉が決裂していたのです。
織田信雄も徳川家康も、まだまだ士気は高いままでした。
例えば北陸では羽柴方の前田利家と徳川方の佐々成政が末森城で激突しており、家康も10月16日に「信雄へ忠節を尽くすなら成政のことも粗略には扱わない」と伝えているほど。
戦場に覇気は残っていた。

前田利家(左)と佐々成政/wikimedia commons
ところが10月下旬から、一気に風向きが変わっていきます。
羽柴軍が南伊勢を制圧したのです。
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長島城の目前まで迫る羽柴軍
南伊勢を押さえた羽柴軍は、10月28日頃には北伊勢の桑名表へ到達しました。
秀吉のやり方は、力押しではありません。
まず滝川雄利が籠もる浜田城を包囲すると、周辺の稗田や鳥山には付城(つけじろ/敵の城を攻撃・監視するための拠点)を構築。
羽津城、泊城、河尻城、萩原城、桑部城、縄生城などを拠点として、長島城の北方まで勢力を伸ばしていきました。

豊臣秀吉/wikipediaより引用
北から迫られた信雄は、もしかしたら「三木城の干し殺し」や「鳥取の飢え殺し」などを連想させられたかもしれませんね。
ジワジワと周囲を取り囲み、相手を干上がらせ、時には餓死まで追い込む――秀吉お得意の戦術です。
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しかも11月10日頃には、長島城の北方にあたる松ノ木城の周辺に、羽柴秀長の軍勢まで姿を現し、城将の吉村氏吉が危機感をあらわにした記録も残っています。
こうした羽柴の動きに対し、徳川家康が何もしていないわけではありません。
桑名城には徳川の重臣である酒井忠次や石川数正など、歴戦の武将たちも詰めていました。
しかし、とても劣勢を挽回できる状況ではない。
現実は、そんなところまで追い込まれていたのです。
秀吉は長島城を攻めるか迷っていた
この頃の羽柴軍には多少の余裕もありました。
秀吉は、伊賀へ戻って仕置をしてから帰国するか、それとも縄生城(なおじょう)で年を越して長島城を攻略するか。
そんな風に決めかねているほどで、現実的に長島城攻撃の選択肢が考えられていたのです。
織田信雄にしてみれば、もはや待ったなし。
家康の直接的な救援がなければ、次の春を待たずに羽柴軍が本拠へ押し寄せ、長島城を攻められる危険性がありました。
では、そのとき家康は何をしていたのか。

徳川家康/wikimedia commons
実は動いています。10月29日、秀吉が北伊勢へ現れたと知るや、信雄の重臣・飯田半兵衛尉へ「明日には出陣する」と伝えているのです。
ところが清須へ到着したのは11日後の11月9日。
信雄としては「遅い、遅すぎる!」とジリジリしたことでしょうが、家康にしても非常に苦しい状況に置かれていました。
なぜなら尾張では犬山城と楽田城に羽柴方が居座り、東美濃では遠山一族との戦いが続き、家康とてそう簡単に軍を動かせなかったのです。
下手をすれば信雄を助けるどころか、羽柴方に尾張を奪われ、徳川方は崩壊してしまう。
そんな非常に危ういバランスの中で進軍していた上に、いざ伊勢長島城へ向かったところで、北方に付城網を築いた羽柴軍を押し返し、信雄を救援するのは容易ではありません。
過去に秀吉が三木城の別所長治を囲んだとき、毛利軍がジリジリと動けずにいた状況と似ていますね。
こうなると、もはやお手上げ。
結局、同年11月11日、和睦は信雄のほうから秀吉へ申し入れることとなりました。
秀吉によると、実は信雄は数日前から和睦をお願いしており、秀吉が様子を見ていたのだそうです。

織田信雄と豊臣秀吉/wikimedia commons
滅ぼされる前に折れるか、囲まれてから折れるか。
織田信雄に残された選択肢は、二つしかありませんでした。
わずかな供を連れて陣所を訪れた信雄
11月15日、織田信雄と羽柴秀吉が対面します。
場所は縄生城だったとみられ、
このときの様子を秀吉自身が書き残していました。
信雄はいろいろと懇望してきて、馬2〜3騎ばかりでこちらの陣所まで駆け込んできた。我々も涙をこぼし、是非に及ばず同意した――。
天下人の息子が、わずかな供だけで敵の陣所へ入っていったのです。
その結果、何がどう決まったのか?
条件を整理しておきましょう。
◆秀吉と信雄の和睦条件
・織田信雄は妹の岡崎殿を人質に出す
・信雄と家康は実子を、織田長益や石川数正らも実子などを人質に出す
・秀吉が奪った桑名、員弁、朝明、三重の四郡は信雄に返す
・尾張の犬山城と河田城は秀吉方へ割譲
・双方が新しく築いた城はすべて壊し、小牧山城も後日破却する
・信雄と秀吉は「父子の約束」を結ぶ
・徳川家康については、信雄の懇願により赦免する
北伊勢の四郡は返される一方、信雄はすでに秀吉方の占領下にあった南伊勢と伊賀を手放し、そのうえ、かつて家臣だった秀吉と父子の縁まで結ばされました。
主君が、家臣の子になる。
かくして戦後の序列が出来上がったのです。
そして翌天正十三年(1585年)2月22日、信雄は大坂城へ出頭し、秀吉に臣従することになりました。

豊臣秀吉/wikimedia commons
長久手で勝っても信雄を救えず
織田信雄が家康に先んじて秀吉へ和睦を申し入れたのは事実です。
しかし、羽柴方はジワジワと長島城の北方まで迫っており、家康が清須へ来ても劣勢を挽回する見通しは立ちませんでした。
秀吉は長島城を攻める選択まで検討している程です。
信雄としては、そこで折れなければ、織田家は滅亡へ追い込まれていたかもしれません。
確かに、家康にしてみればたまったものではなかった和睦。
しかし、その家康にしても、清須から先へ進めているわけではなく、実際に救援できていない。
伊勢は羽柴方に近く、徳川方には遠かったのです。
あたかも信雄一人の弱腰な判断で終わったように見える、この小牧・長久手の戦い。
家康は長久手などの局地戦にいくつか勝っただけで、信雄を支え、秀吉の攻勢を止めるという戦争自体の目的は果たせていません。
大局的に見れば、信雄だけでなく家康も敗戦だったと言えるのではないでしょうか。
なお、小牧・長久手の戦いにおいては200余の兵で1万の池田・森軍に立ち向かった16才の若武者・丹羽氏重がにわかに注目されています。よろしければ以下の関連記事をご覧ください。
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参考文献
- 平山優『小牧・長久手合戦 秀吉と家康、天下分け目の真相』(2024年12月 KADOKAWA)
- 柴裕之『徳川家康 境界の領主から天下人へ』(2017年7月 平凡社)



