徳川家康が長久手の戦いに勝てたのはなぜか?
三河へ向かう羽柴別働隊の背後を急襲できたから――というのは確かにその通りですが、決め手はもう一つあります。
縦に長く伸びた戦線で、一つずつ敵部隊を撃破できたことです。
羽柴別働隊は
第一陣 池田恒興
第二陣 森長可
第三陣 堀秀政
第四陣 三好信吉(豊臣秀次)
という並びで進んでいましたが、秀次本隊が白山林で襲われたころ、池田恒興や森長可の部隊はある城の攻略にかかっていました。
その名も岩崎城。
城を預かるのはまだ16才の丹羽氏重。
そしてわずか200余の兵でした。
合わせて1万規模の池田・森軍を相手にするのは単なる玉砕にしか見えず、戦う理由がさっぱり見えてきませんが、いったい氏重は何を目的として挑んだのか?

狙いは“鉄砲の音”でした。
岩崎城は三河へ通じる街道の要衝
丹羽氏重とは何者なのか。
本題へ入る前に一つお断りさせていただきます。
岩崎城の攻防は大半が江戸時代の軍記に記録されていて、しかも『丹羽家軍功録』や『丹羽家譜』といった丹羽家自身が記したものとなります。
もちろん城が攻められ落城したことは事実。
それでも基本的には、丹羽氏重の功績を称えた史料であることを踏まえて先へお進みください。
天正十二年(1584年)当時、岩崎城は、徳川方の国衆・丹羽氏次の居城でした。

岩崎城/wikimedia commons
ただし、当主本人は小牧山城にいます。
秀吉と対峙する徳川家康に従軍中で、代わりに城の留守を預かっていたのが、当時まだ16才の弟・丹羽氏重でした。
羽柴別働隊を率いる三好信吉(後の豊臣秀次)も数えで17才という若さでしたが、氏重はさらに一つ若い。
しかも、このとき氏重は痘瘡(天然痘)を病んでいたとも伝わります。
そんな若者に託された城が、羽柴別働隊の進路に立っていたのは偶然ではありません。
岩崎は、挙母街道(ころもかいどう)・足助街道・明知街道という三本の道が集まる場所で、西三河へ抜ける要所となっていたのです。
Googleマップで城の位置関係を確認しておきましょう。
上から順に
楽田城(赤・羽柴方)
小牧山城(黄・徳川方)
岩崎城(黄)
岡崎城(黄)
と続いており、岩崎城から挙母街道をたどって足助街道へ入れば、そのまま岡崎へ。
羽柴軍の別働隊が狙っていたのは、まさにその岡崎でした。
松明を灯さない軍勢
天正十二年(1584年)4月9日の早朝、池田恒興・元助父子と森長可の軍勢が、岩崎城の近くまで迫りました。
妙なものがいる。
このとき丹羽氏重はそう思ったそうで、実際、松明を灯さないまま近づいてくる大軍の影があったわけです。
城からただちに物見を出すと、敵がこちらへ向かっていることが判明。

左から池田元助・池田恒興・森長可/wikimedia commons
氏重が決意したのは、逃げることでも守ることでもありません。
足止めでした。
研究者の平山優氏は『小牧・長久手合戦 秀吉と家康、天下分け目の真相』の中で、『丹羽家軍功録』などが伝える氏重の考えを、以下のように紹介しています。
岩崎城から鉄砲の音が轟けば、必ず徳川方の小幡城に届く。
そうすれば敵の攻撃が始まったことが、小牧山城の家康まで伝わるだろう――。
つまり、勝つためではなく、ただ味方へ知らせるために戦うということですね。
200余で池田・森の大軍に勝てるとは、誰だって思わないし、もちろん氏重だってそんな夢など見ちゃいません。
とにかく鉄砲の音を届けることが目的だったのです。
小牧山への使者はほとんど殺された
丹羽氏重は、念のため使者も出しました。
5〜6人を城から走らせ、小牧山へ注進させようと考えたのです。
ところが、その大半は檜ヶ根で堀秀政の軍勢に見つかってしまい、殺されてしまいます。
しかしたった一人、丹羽平五郎茂次だけが見事に敵軍の隙間をすり抜け、竹の山から高針、上野、守山と大きく回り込むと、ようやく小牧山城へたどり着きました。
家康は……既に長久手へ発った後でした。

イラスト・富永商太
驚いた茂次はすぐに家康の後を追い、ようやく徳川軍に追いつくと氏重の兄で城主の丹羽氏次に事の次第を報告します。
弟の決意が兄に届いたとき、岩崎城はもう落ちていました。
池田恒興は素通りしたかった
岩崎城を攻撃する前の羽柴別働隊には、迷いがありました。
第一陣の池田恒興は、岩崎城など放置して、挙母や岡崎を先に攻めたいと考えていた。
しかし息子の元助と娘婿の森長可が「軍神ノ血祭」にすると言って城を落としたがったというのです。
恒興は二人をなだめ、やり過ごそうとします。

池田恒興/wikipediaより引用
と、そこへ岩崎城から押し出してきた丹羽勢が、羽柴別働隊に弓矢と鉄砲を浴びせてきました。
丹羽家の軍記によれば、このとき流れ矢が恒興の馬に当たり、恒興は落馬。
怒った恒興が城攻めを命じた、と伝わります。
前述のとおり、このエピソードは『丹羽家軍功録』などの軍記によるものですので、事実の認定はできません。
実際、研究者の平山氏も、丹羽勢の先制攻撃に苛立った池田・森軍が挑発に乗ったというのが実情ではないか、と見ています。
いずれにせよ氏重は、城の横を素通りされるのは武門の名折れとばかりに、敵兵を足止めして、命をかえりみない合戦を自ら仕掛けたのです。
開戦は朝六つ、午前6時ごろのことでした。
籠城兵200余は全員討死したと伝わる
岩崎城の城内には老人も女性も子供もいました。
敵が突入してくると、丹羽氏重は彼らに城を捨てて妙仙寺へ逃れるよう指示して、人々は城の北西の堀を下り、落ち延びていきました。
百々柴という沼地の草むらに身を隠して生き延びた者もいたと伝わります。
住民を避難させた氏重たちは、数度にわたって敵を城外へ押し返しました。
もちろん、こんな無理は何度も続きません。
所詮は、多勢に無勢。
しかも敵将の一人・森長可は以前から猛将として知られる人物です。

森長可/wikipediaより引用
丹羽軍は次々と討たれていき、軍記によれば、丹羽氏重以下、籠城兵200余人が全員戦死したと伝わります。
討死した中には、近くの長久手城主・加藤忠景の姿もありました。
氏重を助けるため、わざわざ城へ入っていた男です。
戦死者のなかには、氏重に味方した町人30人も含まれていたとされ、生き延びた城兵は使者に出た丹羽平五郎茂次ただ一人だったとのこと。
落城は朝五つ、午前8時ごろともされますが、これも諸説あって定まりません。
いずれにせよ、開戦から数時間ほどで決着はついたようです。
首実検中に迫りくる徳川軍
岩崎城を落とした池田恒興と森長可の軍勢は、六坊山で兵に食事を取らせ、首実検を始めました。
200余が守る小城とはいえ、籠城兵全員が討死したと伝わるほどの激戦です。
池田軍と森軍の将兵たちも、一息つきたい心情だったでしょう。

池田元助/wikimedia commons
しかし、です。
そこへ想定外の一報が飛び込んできます。
「三好信吉様の軍が白山林で徳川軍に襲われ、敗走しました!」
白山林の奇襲は、岩崎城の銃声を聞いて始まったものではなく、徳川軍が前夜のうちから別働隊の後を追っていました。
ただ、稲葉のあたりを進んでいた家康の本隊には、岩崎方面の銃声も立ちのぼる煙も届いていたと伝わります。
氏重が鳴らしたかった音は、確かに家康まで届いていたのです。
そして、もう一つ。
長久手で秀次軍を追う徳川勢の中には兄の丹羽氏次もいました。
氏次は戦いの最中、岩崎城が落ち、弟以下が全滅したことを知らされます。
丹羽家の記録によれば、その後、氏次主従は脇目も振らずに細ヶ根へ攻め上がり、秀次軍を撃破するキッカケをつくったといいます。
16才の氏重が稼いだ数時間と、その死を知った兄の突撃。
岩崎城の攻防もまた、長久手の徳川勝利につながった一因だったのでしょう。
なお、氏重の墓は、住民たちを逃がした妙仙寺にあり、岩崎城址公園内には氏重を称える「忠義碑」も建てられています。

岩崎城址公園内にある「忠義碑」/wikimedia commons
兄の丹羽氏次はその後、関ヶ原の戦功で三河伊保に1万石を与えられ、丹羽家は大名として続きました。
なお、大河ドラマ『豊臣兄弟』で注目された前田利家と佐々成政の対立、ならびに当主と嫡男が同時に死んだ池田家につきましては、以下の関連記事をご覧ください。
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池田恒興も嫡男も長久手で討死|それでも池田家はなぜ滅びなかった?
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参考文献
- 平山優『小牧・長久手合戦 秀吉と家康、天下分け目の真相』(2024年12月 KADOKAWA)
- 阿部猛・西村圭子編『戦国人名事典』(1987年 新人物往来社)
- 川口素生『江戸大名家事典』(2013年2月 新紀元社)


