いったい秀吉の天下はいつ確定したのか?
大河ドラマ『豊臣兄弟』第35回でも描かれた小牧・長久手の戦いが大きなポイントとなったことは何となく合点がいくことと思います。
織田家の当主・織田信雄を事実上屈服させ、東海地方の大大名・徳川家康とも和睦し、もはや中央に大きな敵対勢力はいない。
で、次は?
四国征伐と九州征伐、さらには小田原合戦も残ってるじゃん!
いやいや、その前に関白就任があるからそのときでしょ!
確かに全国統一という意味では奥州仕置きという先もありますが、それ以前に「これで秀吉の天下人は決まりか……」という瞬間がありました。
弟・豊臣秀長の改名です。

豊臣秀長/wikimedia commons
一体どういうことか。順を追って見て参りましょう。
弟は長秀から秀長になった
豊臣秀長の改名と言えば、ドラマでは丹羽長秀が小一郎へ「名前を変えよ」と告げるシーンがありました。
劇中では小牧・長久手の戦い直後のことで、当時は「羽柴小一郎長秀」が名前であり、丹羽長秀とは同名。
「同じ名ではややこしいじゃろw」
そんな冗談混じりの定番トークが二人の間にありましたが、

史実における「秀長」への改名はもう少し早い時期に行われていました。
実は小牧・長久手の戦いのさなかに
「長秀→秀長」
と変えていたのです。
「長」という字は、信長の家臣になったときに与えられた一字と考えられ、名前そのものが織田家直臣の証明書でもありました。
それを「秀」と順番を入れ替えるということは?
そう、大胆にも信長と秀吉の順位を明確に変更したのです。

織田信長/wikimedia commons
◆以前の長秀
→信長の「長」+秀吉の「秀」
◆改名後の秀長
→秀吉の「秀」+信長の「長」
研究者の和田裕弘氏は『豊臣秀長 「天下人の賢弟」の実像』の中で、この改名を織田家からの決別かつ信長の縛りからの脱却だったと指摘。
もう誰かに遠慮せずともよい!という豊臣兄弟の意志が浮かんできます。
では実際「秀長」の文字はいつから使われたのか?
現在、残っている最も古い記録が天正十二年(1584年)9月12日付の禁制です。
つまり織田信雄が和睦を申し入れる11月11日より2ヶ月も前、勝敗がまだ確定していない段階で、羽柴家ではもう織田家に対して決別の意を表明しているのですね。
同時期には甥の三好信吉も羽柴秀次へと改名しました。
秀長は「秀」を先頭に置き、信吉は「信」を消して「秀」を盛り込む――弟も甥も、羽柴家の一門であることを示す新たな名乗りを始めたのです。
結果、小牧・長久手の戦いでは、各大名の序列も大幅に変化しました。
織田家当主の信雄が秀吉に臣従した
天正十二年(1584年)11月11日に織田信雄から秀吉へ和睦が申し入れられました。
このとき信雄に残されたのは尾張と北伊勢の一部だけで、秀吉が決めた領地の線引きを了承し、しかもそれを安堵してもらう形でした。

織田信雄/wikipediaより引用
主君が、家臣に領地を認めてもらう――従来の立場なら有り得ない状況です。
しかし、もはやその流れが変わることなどなく、翌天正十三年(1585年)2月22日には、信雄が大坂城へ出頭して秀吉に臣従。
家臣だった男に頭を下げて両者の立場は明確になり、朝廷の官位秩序もそれに続きます。
戦いが終わった11月、秀吉は従三位権大納言となって信雄の官位を追い越すと、さらに翌年3月には従二位内大臣、そして7月にはついに関白まで上り詰めました。
小牧・長久手の戦いが終わってからわずか8ヶ月で、秀吉は頂点まで駆け上がったのです。
なお、官位のうえでは、天正十二年(1584年)11月21日付の口宣案(くぜんあん・官位の叙任を伝える文書)で従三位権大納言となったことで、朝廷が秀吉を新たな天下人として認めた転機とされます。
秀長への改名は、それに先立って羽柴家が織田家から脱却する意思を示した象徴と見ることができるでしょう。
となると気になってくるのが徳川家康あたりでしょうか。
家康は実子を送り重臣にも去られた
徳川家康は、長久手の戦場では羽柴方に勝っている。
しかし政治外交力では圧倒された。
『貝塚御座所日記』に記された講和条件では「徳川家康については信雄の懇願により赦免する」とされています。
長久手で勝った家康が、信雄の動きによって秀吉から許される側に回ったのですね。
戦争全体では、秀吉が優位に立ったことを示しています。
そのため同年12月12日、家康は二男の於義伊(おぎい・後の結城秀康)を秀吉の養子として大坂へ送りました。
さらに講和条件では、半年以上かけて築き直した小牧山城を当面は残す一方、後日かならず破却すると確約。
柴裕之氏は『徳川家康 境界の領主から天下人へ』の中で、長久手の勝利は局地戦のものにすぎず、この戦争の勝者は秀吉だったと指摘しています。
そして翌年、家康の足元も崩れます。
天正十三年(1585年)6月、上野の沼田や吾妻の引き渡しを拒んだ信濃国衆の真田昌幸が徳川を離れ、8月に上田城を攻めた徳川勢は逆襲されて敗退したのです。
さらに11月13日、宿老として三河以来を支えてきた石川数正が、家中を出て秀吉のもとへ走りました。

石川数正/wikipediaより引用
家康の腹心だった数正の出奔については、突然の出来事すぎて、彼の真意は不明とされています。
秀吉のもとで安心が欲しかったのか。
それとも、あえて秀吉のもとにいることで、徳川家を守ろうとしたのか。
いずれにせよ講和後の徳川家では、羽柴方の圧力を受けるような動きが続き、家康が協力を呼びかけた反秀吉の諸将も孤立していきました。
最後に、その代表である北条氏政、佐々成政、長宗我部元親の動向を見ておきましょう。
家康と結んだ反秀吉勢力は何も得られなかった
小牧・長久手の戦い後、秀吉に反した者たちはどうなったか?
雑賀衆や根来衆などの紀伊勢は、翌天正十三年(1585年)の紀州征伐で屈服。
長宗我部元親も、紀伊勢の後に始まった四国征伐に屈し、支配地を土佐一国へ縮小されました。
佐々成政も、続く越中征伐で秀吉に降伏しています。
関東の雄であり、家康の同盟相手でもあった北条氏政と北条氏直は、すぐには秀吉に屈しませんでした。
一方、徳川家康も秀吉と和睦して実子を送ったものの、この段階では秀吉への臣従を公然と示してはいません。
しかし北条は秀吉との交渉が決裂し、天正十八年(1590年)の小田原征伐で滅ぼされてしまいました。
家康が呼びかけた包囲網はすべて賭けに負けたと言えるでしょう。

徳川家康/wikimedia commons
「長秀」から「秀長」へ。
弟の改名は、秀吉が信長の後継者ではなく、新たな天下人として立とうとした転換を象徴していたのかもしれません。
なお、小牧・長久手の戦いで注目された池田家の動向や徳川軍の進軍については、以下に関連記事がございますので、よろしければ併せてご覧ください。
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参考文献
- 和田裕弘『豊臣秀長 「天下人の賢弟」の実像』(2025年10月 中央公論新社)
- 柴裕之『羽柴秀長 秀吉の天下を支えた弟』(2025年9月 KADOKAWA)
- 柴裕之『徳川家康 境界の領主から天下人へ』(2017年7月 平凡社)
- 藤井讓治『徳川家康 人物叢書300』(2020年1月 吉川弘文館)
- 平山優『小牧・長久手合戦 秀吉と家康、天下分け目の真相』(2024年12月 KADOKAWA)
- 藤井讓治編『織豊期主要人物居所集成【増補第3版】』(2024年10月 思文閣出版)
【TOP画像】豊臣秀長/wikimedia commons


