家康不在で守りが手薄な岡崎へ奇襲を仕掛けようとした羽柴軍の別働隊。
逆に徳川軍の急襲に遭い、長久手の戦いで大敗を喫しましたが、何より痛手となったのが池田恒興・池田元助・森長可の討死でしょう。
特に恒興は、信長の乳兄弟として秀吉のもとでも重用されており、池田家の立て直しは羽柴家にとっても急務でした。
しかし、恒興と共に嫡男の元助も死んでしまってはどうしようもない。
池田家は滅びたのか?
いえいえ、それどころか家康のもとでも重用され、徳川政権でも岡山・鳥取の二つの大藩として幕末まで存続したのです。

池田恒興/wikipediaより引用
大河ドラマ『豊臣兄弟』でも注目された池田恒興とその動向を見て参りましょう。
討死の二日後に秀吉が送った三通
池田恒興が嫡男の元助と共に長久手で敗死したのは、天正十二年(1584年)4月9日のことでした。

池田元助/wikimedia commons
その2日後の4月11日、さっそく秀吉は動きます。
美濃大垣城にいた養徳院(ようとくいん)へ書状を送っているのです。
養徳院とは池田恒興の実母であり、信長の幼少期には乳母も務めて、信長や信雄、秀吉などからは「大御ち(おおおち)」様と呼ばれていた女性でした。
秀吉はまず二人の戦死を悼み、そのうえで、自分を勝入(しょうにゅう・恒興の号)だと思ってほしいと書きました。
私があなたの息子の代わりになる――そう言ったわけですね。
さらに同じ書状で、恒興の次男である照政(てるまさ・後の池田輝政)を取り立て、「宿老たちを付ける」と約束しています。
秀吉が書いたのは、これだけではありません。
同じ11日、恒興の家臣たちへも「一丸となって照政に仕えよ」と命じました。
そのうえで照政本人にも書状を出し、手の負傷を気遣ったうえで、次の合戦の準備を求めています。
祖母、家臣団、そして新当主。
一日で三通です。
研究者の下川雅弘氏は柴裕之編『戦国武将列伝 別巻1 織田』の中で、養徳院の存在なくしては輝政以降の池田家の繁栄もなかっただろうと述べています。
信長の乳母でもある彼女は秀吉も疎かにできない存在だったのですね。

養徳院(池田恒興の母)/wikipediaより引用
三ヶ月後には当主が代わっていた
その後も、秀吉は養徳院を気にかけ続けました。
5月7日に織田信雄方の加賀野井城を落としたときには「これで勝入の弔い合戦ができた」と書き送っています。
8月17日には、美濃の深瀬村・高富村にある800貫文の知行地を、勝入戦死の堪忍分として養徳院に与えました。
ここまで来ると健気にすら思えてきます。

絵・富永商太
ただ、問題は代替わりでしょう。
養徳院にとっても池田家の存続は願いであり、それは一体いつ完了したのか?
同年7月、照政が美濃の加納市場へ禁制を出しているのですが、その中身は前年6月に兄・元助が出したものと同じ内容でした。
文書の形が、そっくりそのまま引き継がれていて、当主の座が移ったことを、これほど分かりやすく示すものはありません。
亡くなった恒興の嫡男・元助には、すでに由之(よしゆき)という子がいました。
しかし、家督を継いだのは、秀吉の言っていた通り弟の池田照政で決定。
三男・長吉も、兄の照政とともに池田家を支えることになりました。
父を討った家から嫁を迎えた
秀吉が池田家を手放さなかった理由は、もう一つあります。
縁戚です。
秀吉の甥で後に関白ともなる三好信吉(後の豊臣秀次)の正妻は、池田恒興の娘でした。

豊臣秀次/wikimedia commons
研究者の黒田基樹氏は『羽柴秀吉とその一族』の中で、秀次の正妻として史料に見える「政所」「若政所」は恒興の娘・致祥院殿であるとしています。
池田照政あらためて池田輝政は、秀吉のもとで順調に加増され、天正十三年(1585年)には織田信忠の居城だった岐阜城まで与えられました。
天正十八年(1590年)小田原合戦のあとは三河吉田城へ。
そして文禄三年(1594年)には徳川家康の娘・督姫(とくひめ)を継室に迎えます。
父と兄を討った家康の娘。
しかも彼女は、北条氏直の正室だった女性です。
なかなか複雑な関係となりますが、もしも彼女との間に男子が生まれれば、その子は家康の外孫となり、池田家と徳川家の結びつきはさらに強まります。
実際、関ヶ原で東軍についた輝政は、播磨に52万石もの大藩を与えられ、今や世界遺産でおなじみの姫路城へ入り、9年をかけて城を大改修しました。
慶長八年(1603年)には次男の忠継が備前岡山28万石、慶長十五年(1610年)には三男の忠雄が淡路6万石を与えられています。
二人はいずれも督姫の子、すなわち家康の外孫でした。

督姫(家康の娘)の肖像画/wikimedia commons
二人とも幼かったため、実際に播磨・備前・淡路の三ヶ国を握っていたのは輝政であり、後に「西国将軍」とも呼ばれるほどの権勢でした。
もっとも、ここから先は順風満帆とはいきません。
幼い当主を理由に二度も国替え
長久手の戦いでは池田恒興と嫡男元助を失い、御家存続のピンチとも思えた池田家。
その後は豊臣政権から徳川政権へ。
時代の荒波を見事に乗りこなし、全国でも屈指の大藩となって江戸時代を迎えました。
しかし、その直後に「当主が幼い」という理由で二度も国替えを強いられています。
一度目は元和三年(1617年)。
前年に池田輝政の跡を継いだ利隆が死去し、その子・池田光政は8才で姫路を継ぎましたが、翌年、因幡・伯耆32万石へ移されました。
そして二度目は寛永九年(1632年)。
岡山の忠雄が死去すると、その子・光仲は3才だったため鳥取へ移され、代わりに光政が備前岡山へ入ります。
最終的に
・輝政長男の家系が岡山
・輝政三男の家系が鳥取
というように落ち着き、両家とも30万石を超える国持大名として幕末まで続きました。
武家としては素晴らしい結果ではないでしょうか。
恒興の妻の実家である荒尾家も、両藩の家老を務めています。

池田輝政/wikipediaより引用
長久手の戦いで池田家が失ったのは、当主と嫡男という二本の柱。
それでも大藩として池田家が生き残れたのは、姻戚関係にあった秀吉がすぐに後見に回り、その後は池田輝政が家康の娘を妻に迎え、外孫をもうけたからでしょう。
家と血――池田家はその点非常に恵まれておりました。
なお、池田恒興と池田輝政の生涯については以下の関連記事を併せてご覧いただければ幸いです。
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池田恒興はなぜ秀吉側についた?清須会議から小牧・長久手で迎えた最期
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参考文献
- 柴裕之編『戦国武将列伝 別巻1 織田』(2025年10月 戎光祥出版)※下川雅弘「池田恒興」
- 菊地浩之『織田家臣団の系図』(2019年9月 KADOKAWA)
- 黒田基樹『羽柴秀吉とその一族』(2025年5月 KADOKAWA)
- 平山優『小牧・長久手合戦 秀吉と家康、天下分け目の真相』(2024年12月 KADOKAWA)


