徳川家康と共に挙兵して、小牧・長久手の戦いで羽柴秀吉と対峙した織田信雄。
そのキッカケが、天正十二年(1584年)3月に重臣の津川雄光を斬り捨てた事件だったことは、大河ドラマ『豊臣兄弟』でも描かれました。
家康に唆された二代目のボンボンが重臣を粛清した――やはり愚将だったのね! とも思える場面ですが、史実をよくよく見ると事はそう単純でもありません。
このとき信雄は、三名の重臣を切り捨てているのです。
しかもその三人は、信雄の重臣であると同時に秀吉にも人質を差し出していた立場であり、聞けば聞くほどワケがわからなくなってくる。
いったい小牧・長久手の戦い直前に、織田信雄の家中では何が起きていたのか?

織田信雄/wikipediaより引用
当時の状況を振り返ってみましょう。
※津川雄光は雄春・義冬とも表記
斬られた三人は秀吉に人質を出していた
まず織田信雄に斬られた三名の重臣を確認しておきます。
◆岡田重孝(尾張星崎城主)
◆浅井新八郎(尾張苅安賀城主)
◆津川雄光(伊勢松ヶ島城主)
三番目の津川雄光が、ドラマの中で「ひょい、ひょい」と踊りながら背後を斬られていた人物ですね。

この津川雄光と岡田重孝は1〜2千人を動員できる織田信雄家中の大身で、軍役の規模で言えば城持ちの大名クラスに匹敵。
研究者の平山優氏は『小牧・長久手合戦 秀吉と家康、天下分け目の真相』の中で、当時の織田信雄家中を事実上取り仕切っていた二人と指摘しています。
京都の公家・吉田兼見の日記にも、二人が秀吉と織田家の調整を「秀吉が有利になるよう進めていた」と記しているほど。
問題は、彼らの立ち位置でしょう。
岡田重孝・津川雄光・浅井新八郎、そして滝川雄利を含めた四名は、秀吉のもとへ人質を提出していたことが判明しています。
主君は織田信雄でありながら、秀吉にも従属している、いわゆる“両属の関係”だったのですね。
明智光秀が足利義昭と織田信長の両者に仕えていた構造と同じです。
ゆえに秀吉のもとへ出向くのも自然なことであり、例えば天正十一年(1583年)10月から翌年1月にかけ、津川・岡田・滝川らが大坂に滞在していたことも明かされています。

豊臣秀吉/wikipediaより引用
滝川雄利にいたっては、秀吉から「羽柴」の名字まで授けられていました。
自家の重臣が、よその家から名字をもらう――信雄にしてみれば、内側から崩されている状況です。
『当代記』でも、織田家中には信雄を軽んじて秀吉を頼る風潮があったと記され、とりわけ岡田助三郎は「別して秀吉公の機愛の人なり」、つまり「特に目をかけられていた」とありました。
それでも織田信雄は、すぐには動きません。
引き金は秀吉からの出兵命令
決定的な一打が放たれたのは、天正十二年(1584年)2月のことでした。
秀吉が和泉・紀伊への攻撃を計画して諸将に大坂への参集を命じると、織田政権のもとでは主君であるはずの織田信雄にまで参陣を求めます。
誰を敵と定め、どこへ攻め込むかを決め、動員をかける――それは本来、織田家の当主である信雄がやるべきことで、逆に秀吉もそれを踏まえて信雄に仕掛けたとも言えます。
もし織田軍が秀吉のもとへ参陣すれば、その者たちは秀吉に従属したと世間には見なされる。
戦わずして主従が入れ替わってしまうわけです。
劇中で描かれている短気な信雄でしたら、この時点で合戦に挑んでも不思議ではないでしょう。
しかし史実における信雄は、秀吉の要請をいったん受諾し、家臣に出陣を命じました。
信雄が、親秀吉派の重臣たちに説得されたのか。
あるいは他に何も動きようがなかったのか。

後に三家老が信雄から
【意訳】秀吉と申し合わせていた
【原文】羽筑と申談候
と糾弾されたのは、この場面を指すと見られています。
こうして信雄は、秀吉によって周辺からジリジリと追い詰められ、そこで相談を持ちかけたのが徳川家康だったのです。
酒宴に招いて斬った
織田信雄は家康に伝えます。
三家老が秀吉に通じ、自分を軽んじ、謀反まで企てている――。
そこで家康は天正十二年(1584年)2月、家臣の酒井重忠を信雄のもとへ派遣し、「密事の御旨」を託しました。

徳川家康/wikimedia commons
正確な内容は不明ですが、その後の展開からして「信雄が秀吉と戦う決意なら支援する」という趣旨の言葉が伝えられたのは間違いないでしょう。
支援の約束を取り付けた信雄は、約1ヶ月後の同年3月6日、三名の重臣を伊勢長島城へ呼び寄せます。
酒宴を開くから是非来てくれ。
宣教師の記録にはそう記され、別の記録では「鷹の鳥料理」を振る舞う、あるいは「饗膳」を用意したとも記されています。
招いた場所は、長島城の天守でした。
こうした描写は主に後世の軍記などに基づくものですが、天守の附櫓(つけやぐら)に設けられた座敷は信雄の居住空間でもあり、よほどのことがなければ人を招き入れない場所。
信雄はあらかじめ土方雄久・飯田半兵衛尉・森久三郎に討ち取るよう密命を下しておき、近習衆にも備えを命じていたとされます。
最も奥まった座敷まで招き入れ、斬る!
このときの信雄には、もはや迷いなどなかったでしょう。
殺された「浅井」は16才の少年ではなかった?
最後に注目しておきたいのが浅井新八郎です。
通説によると、殺された浅井は当時16才の浅井長時であり、幼名・田宮丸という少年とされてきました。
しかし研究者の平山氏は、田宮丸が「新八郎長時」と名乗ったことを示す史料はないと指摘。
確実な記録には「浅井新八」とのみあり、田宮丸とする記述はすべて軍記物や系譜類など、正確性が確かなものではないものばかりでした。
そして決め手になったのが公家の日記『兼見卿記』です。
天正十二年(1584年)5月16日、毛利長秀の生母が吉田兼見へ御祓を依頼した記録があり、そこに「今度、尾州において婿・同孫、生害なり」と書かれている。
尾張で自害したのは「婿と孫の二人」という意味です。
婿は浅井新八郎信広で孫が田宮丸。
つまり呼び出された新八郎信広が息子の田宮丸を伴って出仕したところ、父子ともども斬られたのでは?というのが平山氏の見方です。
浅井新八郎信広は、天正九年(1581年)に死去したと伝えられてきた人物でした。
つまり幼い息子が父に伴われて出仕し、一緒に殺されたことになります。
その衝撃が強かったために、後世の軍記物では田宮丸のほうが前面に出て、父の存在が消えてしまったのでしょう。
★
三人が斬られたことは、逃げ帰った従者によって各地へ伝わりました。
そして翌3月7日、家康が動きます。
信雄から届いた一報を受けると、家康はただちに出陣命令を出し、自身も同日中に岡崎城へ入りました。

岡崎城
これだけ素早く動けるのは、事前に織田信雄と打ち合わせ済みだったからであり、軍備を進めていたからでしょう。
重臣三名の誅殺は、短気な二代目の暴発などではなく、二人の大名が仕組んだ開戦の合図だったわけです。
なお、大河ドラマ『豊臣兄弟』第35回放送で「性格がヤバくないか?」と注目された三好信吉と織田信雄については、以下の関連記事もございますので、よろしければ併せてご覧ください。
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織田信雄も三好信吉も性格ヤベェ奴だったのか?豊臣兄弟第35回史実解説
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参考文献
- 平山優『小牧・長久手合戦 秀吉と家康、天下分け目の真相』(2024年12月 KADOKAWA)
- 柴裕之『徳川家康 境界の領主から天下人へ』(2017年7月 平凡社)
- 黒田基樹編『戦国大名の新研究3 徳川家康とその時代』(2023年4月 戎光祥出版)
- 柴裕之編『戦国武将列伝 別巻1 織田』(2025年10月 戎光祥出版)※柴裕之「織田信雄」
- 谷口克広『織田信長家臣人名辞典 第2版』(2010年10月 吉川弘文館)
- 黒田基樹『羽柴を名乗った人々』(2016年11月 KADOKAWA)

