大河ドラマ『豊臣兄弟』第35回のテーマは「小牧・長久手の戦い」でした。
羽柴軍vs織田・徳川連合軍の合戦とはどのような流れだったのか?
皆さんの興味はそこにあったと思われますが、今回とにかく目を引いたのは二人の男の性格でしょう。
三好信吉(後の豊臣秀次)と織田信雄です。
長久手の戦い(白山林)で大敗した三好信吉は、秀吉の前では神妙に頭を下げておきながら、秀長と二人きりになった途端に「まぁ、私の責任じゃないから」と開き直り。
山田涼介さんが演じて、いかにも誠実そうだった若者の心の奥底に、なんだかトンデモナイ闇を感じさせました。
そしてもう一人の織田信雄は、何もかも他人のせいにして、しまいには父・織田信長の最期を「寺の中で焼け死ぬなど惨めの極み」とまで吐き捨てる。
いったいこの二人に何があったのか。
なぜ、このように描かれるのか。

『小牧長久手合戦図屏風』/wikipediaより引用
三好信吉と織田信雄の事績を確認しながら、第35回放送全体の史実面を振り返ってみましょう。
第35回のあらすじ
まずは今回のあらすじを手短に確認しておきます。
天正十二年(1584年)、織田信雄と徳川家康が挙兵。
羽柴方は小牧山城を押さえて一気に片をつけるつもりでしたが、すでに城は徳川方に押さえられていたため、楽田城に本陣を置きました。
しかし、そこから両者互いに警戒して戦線は膠着します。
果たして羽柴軍はどう動くのか。
そこで池田恒興が提案したのが岡崎攻め、いわゆる三河中入りでした。
家康不在で手薄になった岡崎城を狙い、三河へ2万もの兵を出すという作戦ですが、そこで「そのお役目、お任せください」と大将を名乗り出たのが三好信吉です。
山田涼介さん演じる信吉は豊臣兄弟の姉ともの実子であり、秀吉としても甥に手柄を挙げさせたい。
「わかった、こたびはお前が大将じゃ」
そこで池田恒興・森長可・堀秀政らと共に別動隊を託したのです。しかし……。
信吉の部隊は、白山林で呑気に飯を食っていたところで徳川軍の襲撃。
どうしても武功が欲しい信吉が粘って軍を立て直そうとするも、徳川四天王・榊原康政に押されてもはや逃げるしかありません。
結局、戦場から逃亡した信吉は、秀吉の前で頭を垂れて、ひたすら謝る。
その謝罪直後のことでした。
信吉は、秀長と二人になると急に態度を変え、小牧山城から出陣した徳川勢に気づかなかった見張りが悪い、自分の責任ではない、と開き直るのです。
その態度に一瞬唖然としながら「今回は徳川勢にしてやられたんだ」と甥を説得する秀長。

叔父の説得に一応頷く素振りの信吉は、表情からして、全く納得がいってない様子が浮かんできます。
『だから、俺は悪くないっつってんじゃん! 見張りのヤツ、呼んでこいよ!』
そんな本音が見え隠れしますね。
なお、劇中では池田恒興とその嫡男・元助の討死だけが描かれましたが、史実では森長可という大物も亡くなっています。信長お気に入りの武将であり、織田家の重臣・森可成の息子で森蘭丸の兄でした。
長久手の戦いが終わり、羽柴と徳川の戦線は再び膠着。
両軍の争いは各地へ広がっていきます。
北陸では前田利家と佐々成政が衝突する構えで、四国の長宗我部元親は大坂へ乗り込むと意気込み、毛利は動かぬことで秀吉に貸しを作ろうとし、佐竹軍に攻められた北条氏政は「援軍は送れぬ」と告げました。
そして5ヶ月が経過――。
疲弊したのは民でした。秀吉は町民から石を投げられて出血し、手当をする寧々は「この戦はいつまで続くのですか」と夫にプレッシャーをかけます。
秀吉も徳川も、ここまで来たら後には引けない。

やがて滝川一益が蟹江城で敗れ、秀吉から隠居を告げられるところで差し出したのは、秀吉を卑しい身分の逆臣と罵り、討った者には金子100枚を与えるという落書きでした。
それを知らされた秀吉は激怒のあまり倒れてしまいます。
もうこれ以上、戦を続けていられない。
そこで秀長が和睦を提案します。
家康が応じるわけがないと怒鳴る兄へ、秀長が告げた和睦相手は織田信雄でした。
信雄から丹羽長秀に対して調略の書状が送られており、徳川家康との連携が上手くいってない様子が伺えたため、ここを攻めることにしたのです。
伊勢長島城を攻められた信雄は折れるしかなく、いざ豊臣兄弟との和睦の場で愚痴をこぼし始めます。
「家康にそそのかされた」
「織田家になど生まれなければよかった」
「父は寺の中で焼け死ぬなど惨めの極みだわ」

ダラダラと文句ばかりの信雄に対して、ブチ切れた秀長は起請文をくしゃくしゃに丸め、「お前と和睦などせぬ!」と激昂。
それを秀吉が取りなし、長い戦はようやく終わりとなりました。
戦後、丹羽長秀は秀長へ語りかけます。
あやつは信長公を超えるかもしれん、なぜかわかるか、お主がおるからじゃ――。
そして、これが丹羽長秀との最後の対面となるという小一郎は「羽柴美濃守秀長」を名乗ることになりました。
“最後の対面”とは何やら気になる一言でしたが、まずは三好信吉の人間性を史実面から振り返ってみましょう。
信吉は本当に責任転嫁する男だったのか
敗戦の責任を痛感して秀吉には深々と頭を下げながら、実際は監視の者が悪い!と開き直る三好信吉。
配役が山田涼介さんだけに、裏表のない貴公子のような信吉(豊臣秀次)になるのかと思いきや、なんだか様子がおかしいですよね。
史実でも信吉はそのような人物だったのでしょうか?

豊臣秀次/wikimedia commons
結論から言って、ドラマの人物像には根拠もあります。
長久手から5ヶ月後の9月23日、まだ徳川軍とにらみ合いが続くなかで、秀吉は信吉に対して長い書状を送りました。
原文書は伝わらず、江戸時代に山鹿素行が編んだ『武家事紀』に写しが残るのみですが、その中身を要約すると以下のようになります。
◆秀吉から信吉に対する書状
・甥であることを鼻にかけるな
・一時はお前を殺そうとさえ思った
・名のある武将たちを討ち死にさせたのは、とんでもない振る舞いだ
・行いを改めないなら首を切る
・養子の秀勝が病弱なので、お前を名代にしようと考えていた
注目したいのは、やはり最初の一条でしょう。
敗戦の責任や作戦の失敗ではなく「甥であることを鼻にかけるな」という一文からして、秀吉にとっては信吉の傲慢な振る舞いが目に余っていた可能性を感じさせます。
ドラマで描かれた「表では神妙、裏では開き直り」という二面性は、ここを膨らませたのかもしれません。
では、この秀吉の見方は正しかったのか。
同時代人の評価も真っ二つに割れていた
三好信吉あらため豊臣秀次といえば、のちに「殺生関白」という汚名を着せられる人物です。
辻斬りをした、無益な殺生を好んだ、といった逸話がいくつも残されている。
この見方に対しては、研究者の小和田哲男氏が『豊臣秀次 「殺生関白」の悲劇』の中で、これらの逸話は記録によって内容がばらばらで、あまりにバリエーションが多すぎると指摘。
信憑性は高くなく、後に秀次が自害という衝撃的な最期を迎えているため、後世に尾ひれがつけられたと考えられています。
では、同時代の第三者はどう見ていたのか。
ルイス・フロイスが書き留めた秀次は、人に愛される禁欲的な若者で、野心家ではない人物でした。
しかし同じ外国人でも、スペインの貿易商アビラ・ヒロンの評価はまるで逆。
秀次の尊大さや残忍性に触れ、「この王国の大身の多数の人々から好意を抱かれてはいなかった」と非常に辛辣に語られているのです。

宣教師イメージ(絵・小久ヒロ)
ただし、フロイスとアビラ・ヒロンはそれぞれ異なる立場から秀次を見ており、小和田氏もどちらが正しいのか判断するのは難しいとしています。
いったい何が正解なのか。
ヒントになるのが、秀次の日常かもしれません。
諏訪勝則氏は黒田基樹・柴裕之編『戦国武将列伝 別巻2 豊臣編』の中で、秀次が関白就任以前から茶の湯や能楽に親しむ教養高い人物であったと記しています。
なぜそんな活動をしていたのか? というと、秀次が叔父・秀吉の厄介さや怖さを熟知していたからこそ、自分は政治に関与しないと必死にアピールしていたのではないか、と見ているのです。
叔父の顔色をうかがい続けた教養人という像ですね。
さほどに秀吉という権力者が絶対的な存在だったのでしょう。
ドラマで三好信吉時代の二面性が描かれたのは、そうした秀吉の強権っぷりを薄めるためのものかもしれません。
後の豊臣秀次は自害という最期を迎えますが、そうなるには一定の理由があった。
特に性格的に問題があったという描き方ですね。
同様に、性格に難ありな人物像にされた織田信雄も史実面から見てみましょう。
信雄は命令を無視して伊賀へ攻め込んでいた
織田信雄は、もともと“愚将”という評価になりやすい武将です。
三谷幸喜氏による映画『清須会議』で、いかにもアホっぽいキャラを妻夫木聡さんが演じられていましたが、史実面でもそれを裏付ける失策が多々あります。
代表的な一件が、小牧・長久手より5年前、天正七年(1579年)9月でしょう。

織田信雄/wikipediaより引用
このとき信雄は、父・信長から摂津伊丹城攻めへ参加するよう指示されていました。
※当時の実名は「信直」ですが本記事では信雄で統一
しかし信雄はそれを無視して伊賀への出兵を優先。
自分の領国に関わる戦を選んだわけですが、結果は大失敗で、重臣の柘植三郎左衛門を失ったうえ、戦後、信長から激しく叱責されています(『信長公記』)。
しかも話はそれで済みませんでした。
信雄はしばらく謹慎に追い込まれたとみられ、翌天正八年2月までに実名を「信勝」へ改めました。
信長の勘気はほどなく解け、5月には安土の邸宅を普請。
そして同年7月、「信勝」の「勝」を改めて「信雄」を名乗ります。
命令を無視して手痛い敗北を喫し、父から叱責された後も、実名を信勝、信雄へとコロコロ変える。
ドラマで描かれた甘ったれのボンボンという人物像は、創作とは言い切れません。
では、父の死を「惨めの極み」と言い切った本人はどんな最期を迎えていたのか。
父の死を「惨め」と言った信雄のその後
天正十八年(1590年)小田原合戦のあと、織田信雄は秀吉から、徳川の旧領への移封を命じられました。
すると領国内では移封に反対する「騒動」が起き、その対処に追われた信雄は、最終的に移封そのものを拒絶するのです。
結果は秀吉の怒りを買っての改易。

豊臣秀吉/wikimedia commons
わずかな従者と共に下野那須へ流され、やがて出家して法名の「常真」を名乗りました。
劇中で父を惨めと吐き捨てた男は、自身の領国をすべて失ってしまうのです。
しかし、信雄という人物は同時に不思議な嗅覚もあります。
大坂の陣では、豊臣方から籠城軍の大将に担ぎ出される案まで出ながら、危険を察して大坂を退出すると徳川方につき、戦後は家康から賞されて大和と上野に5万石を与えられるのです。
そして寛永七年(1630年)4月晦日に死去。
享年73であり、織田家の栄光も凋落も見届けた、長い生涯でした。
戦場の民は本当に疲弊していたのか
今回の放送では、もう一つ気になる場面がありました。
秀吉が町の民から石を投げられ、滝川一益が「終わることない地獄じゃ」と吐き捨て、秀長が田畑の荒廃を語る――戦に苦しむ民の怒りが秀吉へ向かい、それが和睦を後押しするように描かれていました。
では実際に、そうした出来事を示す記録はあるのか?
というと、石を投げられたことや、民の怒りが和睦の契機になったことを示す史料は確認できません。
ただし、戦場周辺が深刻に疲弊していた可能性は十分にあります。
天正十二年(1584年)6月4日、秀吉は関東の佐竹義重へ送った書状に、こう記しています。
【意訳】侍はもちろん、土民・百姓までが餓死に及んでいる
【原文】侍之儀者不及申、土民百姓迄及餓死候
秀吉は、木曽川の堤を切り崩したため、信雄の拠点である長島や清須周辺が洪水のようになり、武士だけでなく百姓まで飢えていると報告しています。
ただし、これは自らの戦果を伝える書状です。
同じ書状に記された「尾張五郡を制圧した」という報告については、研究者の平山優氏は事実ではないと指摘しています。
洪水と飢餓についても、別の同時代史料がないため、そのまま事実とは断定できません。
一方、近世の『小牧陣所之者之咄伝之覚』には、秀吉方が堤を切ったことで清須周辺まで水が押し寄せ、人馬の通行が止まったとの記述があります。
洪水と戦災によって尾張の民が苦しんだこと自体は、十分に考えられるでしょう。

なお、翌天正十三年(1585年)は全国各地で大飢饉が発生しています。
戦乱の当時は、敵地の食糧や人々を強奪したりする「刈田・放火・乱取り」などがあり、民が困窮することは珍しくありません。
ただし、その怒りが秀吉への投石や落書きとなって和睦を後押ししたという史実は確認できず、ドラマの演出と言えるでしょう。
なお家康は、北条氏直への書状で、秀吉の傲慢な振る舞い(恣の振舞)を討つために出馬したと宣伝しています。
反秀吉の理屈は実際に存在しましたが、それと劇中の民衆による抗議は分けて考える必要がありそうです。
では最後に、前田利家と佐々成政、四国の長宗我部、中国の毛利勢など、ドラマでも描かれていた全国の様子を整理しておきましょう。
毛利・北条・長宗我部はなぜ動けなかったのか
ドラマでは毛利が「動かぬことで羽柴に貸しを作ろう」と語り、北条氏政は「援軍は送れぬ」と言い、長宗我部は伊予と讃岐を平らげて大坂へ乗り込むと意気込んでいました。
まず毛利ですが、本能寺の変直後に秀吉と和睦し、輝元は小早川秀包(ひでかね)を人質として大坂へ送っていました。
小牧・長久手では、その秀包が毛利の援軍と共に出陣。
動かなかったのではなく、秀吉側にいたのですね。
次に北条です。
徳川家康の娘・督姫が北条氏直に嫁いでおり、こちらは正真正銘、徳川の同盟相手でした。

北条氏政(左)と北条氏直/wikipediaより引用
北条家の中にも、上方で織田・徳川方が勝てば関東でも自分たちが優位に立てる、と読んでいた者がいます。
しかし、史実の北条も動けませんでした。
秀吉が、北条と敵対する佐竹義重ら「東方之衆」を味方に取り込み、下野の沼尻で対峙させ、さらに同じ時期には安房の里見氏も北条を攻めていました。
結局北条は、家康に援軍を出す意志がありながら沼尻合戦への対応から動けず、家康は最後まで関東の加勢を受けられなかったのです。
では北陸はどうか。
越後の上杉景勝は秀吉のもとへ人質を送っており、越中の佐々成政を釘付けにしていました。
家康が味方につけようとした相手には、ことごとく別の敵があてがわれていたことになります。
四国の長宗我部元親もそうです。
早い段階から織田信雄が元親の弟へ書状を送っていましたが、当の元親は劇中の台詞とは裏腹に、阿波や讃岐の三好方や伊予の勢力との戦いが続いており、とても大坂へ乗り込める状況ではありませんでした。
しかも秀吉は、淡路を拠点とする仙石秀久らを讃岐方面へ送って牽制、しっかり押さえていたのです。
結局、長宗我部元親は翌天正十三年(1585年)7月下旬、秀長の勧告を受けて降伏し、その後、領有を許されたのは土佐一国のみでした。
詳細はまた次週の放送後にお送りしたいと思います。
なお、史実における長久手の戦いと三好信吉(豊臣秀次)の詳細については、以下の関連記事をご覧いただければ幸いです。
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三好信吉(豊臣秀次)はなぜ長久手の戦いで惨敗したのか|二万余の大将は肩書だけ?
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参考文献
- 平山優『小牧・長久手合戦 秀吉と家康、天下分け目の真相』(2024年12月 KADOKAWA)
- 柴裕之編『戦国武将列伝 別巻1 織田』(2025年10月 戎光祥出版)
- 黒田基樹・柴裕之編『戦国武将列伝 別巻2 豊臣編』(2026年7月 戎光祥出版)※諏訪勝則「羽柴秀次」
- 小和田哲男『豊臣秀次 「殺生関白」の悲劇』(2002年3月 PHP研究所)
- 平井上総編『戦国武将列伝10 四国編』(2022年12月 戎光祥出版)
- 藤井讓治『徳川家康 人物叢書300』(2020年1月 吉川弘文館)

