昔話や漫画でもお馴染みの存在ですが、戦国時代にもこの異名を持つ武将は多くいました。
例えば「井伊の赤鬼」こと井伊直政や「鬼柴田」こと柴田勝家、あるいは織田家には「鬼武蔵」と称された森長可(もりながよし・森蘭丸の兄)などもおりますね。
こうなると一大名に一人は“鬼あだ名”を持つ武将がいる程で、今回、注目の佐竹義重もまた「鬼義重」と呼ばれた武将です。
武勇だけでなく外交戦略にも長けた万能選手であり、天文十六年(1547年)2月16日に誕生。
黒田官兵衛と同世代で豊臣秀吉ともちょくちょく関わっていた人です。
それがなぜ「鬼義重」などと称されるようになったのか?
一体どんな武将だったのか?
佐竹義重の生涯を振り返ってみましょう。
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関東の雄・後北条氏とぶつかる一方で
まず始めに確認しておきたいのが佐竹氏という一族です。
名前からパッとはわかりませんが、実はご先祖様が武田信玄と同じ源義光であり、
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源義光像(摂津国寿命寺蔵)/wikipediaより引用
長らく常陸(茨城県)に基盤を置いていた由緒正しいお家。
源義光→源義業→佐竹昌義……………………佐竹義重
源義光→源義清→源清光→武田信義……………………武田信玄
鬼義重の異名については、北条氏との戦で一度に七人を切り伏せたという剛毅な逸話から生まれていますが、武勇だけでなく頭脳戦も得意な方でした。
永禄5年(1562年)に15歳で家督を相続。
父の佐竹義昭が健在の間は、実権を握っていたとは言いがたいものの、上杉謙信と結んで小田氏や武茂氏など関東諸将の城を奪っています。
やはり戦や外交の才能には恵まれていたのでしょう。関東でそうなれば、やがて無視できない存在とぶつかります。
大大名の北条氏です。
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北条氏康/wikipediaより引用
幾度となく北条氏とぶつかっている佐竹氏ですが、その度に関東や東北の諸大名と連携するなど、臨機応変に対処。
東日本の大名としては比較的早く豊臣秀吉にも接近しており、足元だけでなく上方と連絡を取ることの重要性にも気付いています。
もっと北(山形)にいた最上義光なども上方対策は上手でしたね。
北には政宗、南には氏政で絶体絶命
時代が進み、佐竹氏は二つの困難に直面します。
そんな野心家たちのサンドイッチ状態になってしまったのです。
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伊達政宗/wikipediaより引用
普通の人ならここで泣き言をほざくところですが、鬼と言われるほどの人ですからそんなことはありません。
まず、政宗に対しては東北の事情を鑑みて、伊達家に反感を抱く大名へ連絡を取ります。
すると出るわ出るわ不満の嵐。
政宗が小手森城で撫で斬り(皆殺し※ただし実際は記録の数ほどではないとも)をやってしまったからで、彼にしても【親戚だらけで生ヌルい奥州の小競り合いにケリをつける!】という目的があったともされます。
しかし東北のほとんどの大名に、傍若無人な政宗の恐ろしさだけが印象付けられ、伊達家への反感が強まっていきました。
あと一歩のところまで伊達家を追い込むも……
この状況に目をつけた佐竹義重は、対伊達家を掲げた大同盟を組んで政宗と対峙し、合戦となります。
【人取橋の戦い(1585年)】です。
結論から申しますと、この同盟はうまくいきませんでした。
義重が自国の外へ目を向けている間に、足元の常陸で反乱を企んだ者がいた……と言われています。
よほど恥ずかしい裏事情でもあったのか。記録がハッキリ残っていないので断言できませんがとりあえずこの説で。
さすがの鬼義重も、自宅が火種になってしまっては退かざるを得ません。
結局、戦ではあと一歩というところまで伊達家を追い詰めたものの、この撤退により形式上の勝者は政宗になってしまいます。
政宗の片腕・伊達成実の踏ん張りが戦線を保ったんですね。
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伊達成実/wikipediaより引用
後年、徳川家光がこのときの話を所望した際、政宗が上機嫌で喋りまくったのに対して義重は終始しかめっ面だったという逸話がありますので、よほど悔しかったのでしょう。
まさに「相撲に勝って勝負に負けた」状態ですからむべなるかなというところですが。
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