むしろ同盟や調略、あるいは普段からの「友好関係」を構築することが重要であり、戦はいわば最終手段だとよく言われますね。
織田信長は、その点、かなり気の利く贈り物上手だったような気すらしてきます。
あの信長さんが?
と一瞬引いてしまうかもしれませんが、そうした対応っぷりも『信長公記』に掲載されているのです。
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東北から取り寄せた鷹50羽
天正三年(1575年)10月3日。
東北から取り寄せていた鷹が50羽届きました。
鷹狩や贈答用に購入したもので、信長は50羽のうち23羽を手元に残して、残り27羽を家来衆に分け与えました。
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前回、越前一向一揆の後には鷹狩を禁じていたのに……といった印象も受けるかもしれませんが、地域ごとの事情によるものでしょう。
掟 越前国抜粋
一、鷹狩は禁止する。ただし、砦を築くため等で地形を把握する必要があれば、例外とする。
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織田家の領地になったばかりの越前で、軍事目的以外の鷹狩などしていては、いつ油断のもとになるかわかりません。
当然城を空けることになるわけですから、その間に良からぬことが起きるリスクもあります。
信長も遠い昔、弟・織田秀孝が単独で事故死するなど、城を出て不慮の事態に遭遇した例を見てきました。
そのあたりの苦い経験から来る禁令だったのかもしれません。
また、岐阜で信長に仕えている者たちは、訓練や戦での諜報、あるいは社交での贈り物などで鷹を使うこともあったでしょう。単なる依怙贔屓には見えません。
公家も挨拶にやってきた
一週間ほど時が進んで10月10日。
上洛のため岐阜を出発した信長は、届いた鷹のうち14羽、ほかに鷂(はいたか)3羽を連れて行ったとあります。
鷂も鷹の一種で、少々小柄な種類ですね。
この日は垂井に泊まり、次の日には京からの迎えとして、三条公宣と水無瀬兼成という公家が相原までやってきました。
三条公宣は、今日では実綱の名で知られている人だと思われます。
永禄五年(1562年)生まれですから、このときはまだ13歳の少年。
三条家は、天文二十年(1551年)に【大寧寺の変】で当時の当主・三条公頼が亡くなっており、分家筋の実教が若くして後を継いでいたのですが、実教もまた16歳で早世していたのです。
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その跡を継いだのが三条公宣=三条実綱です。
三条家は藤原北家閑院流嫡流の清華家、つまり名門中の名門。とはいえ当主が事故死と夭折が続けば、信長のような権力者の後ろ盾が欲しいところでしょう。
ただし、その公宣も天正九年(1581年)に亡くなってしまうのですが……。
水無瀬兼成もまた藤原北家水無瀬流嫡流の人で、由緒正しい公家の一人です。
家格は羽林家で、清華家よりは二段階ほど下がります。
もともとは三条西公条(さんじょうにし・きんえだ)の息子で、水無瀬家へ養子に入りました。
兼成は永正十一年(1514年)生まれですから、少年の公宣と並ぶと、祖父と孫のように見えたことでしょう。
瀬田の唐橋を検分 もはや実質天下人?
10月12日は永原にて宿泊。
【瀬田の唐橋(124話)】が完成していたため、信長自ら検分を兼ねて通ったようです。
他に特記はないので、問題なかったのでしょう。
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ここから京都までの道中にあたる瀬田~逢坂~山科~粟田口まで、摂家・清華家や近畿周辺の大名たちが信長の出迎えにやってきており、権勢を示していたといいます。
人数や顔ぶれについては書かれていませんが、これは勢田から京都の入り口ほぼ全域ともいえるルートです。大名行列と見物人のような、かなりの賑わいだったのでしょうね。
まぁ、このころの信長は十分に天下人でした。
信長以前に天下人だったとされる三好長慶は、最盛期に一族全体で以下9カ国を支配しておりました。
摂津・山城・和泉・丹波、播磨東部・阿波・讃岐・淡路・伊予東部
政治の主要どころを押さえて三好政権を運営しただけのことはありますね。
では、この頃の織田家はどうだったのでしょう?
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