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この橋は古代からの要衝で、著名な激戦が幾度も行われてきました。
が、信長は意外な理由からこの橋を架け替えています。
一体なにがあったのか?
『信長公記』では、京都で行われた「能の会」と共に記されておりますので、まずはそこから見て参りましょう。
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妙顕寺で「能の会」
天正三年(1575年)7月6日、京都。
上京・下京の町衆が、織田信長や織田家の重臣、摂家・清華家の人々を招き、妙顕寺で「能の会」を催しました。
能は八番行われたようで、演目については詳細が書かれていないのでわかりません。特記がないということは、おそらくトラブルもなく無事に終わったのでしょう。
また、特に望まれて観世国広と観世又三郎が大鼓を打った、とあります。
観世国広は似我与左衛門ともいい(すごい名前ですね)、室町幕府十三代将軍・足利義輝にも腕前を認められており、また細川藤孝の大鼓の師匠でもありました。
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1506年生まれとされていますから、このときもう69歳。
当時の基準ではかなりの長生きですし、名人の風格漂う人物だったのでしょうね。
『信長公記』で「瀬田の唐橋」にスポットが当たるのは、7月12日からの記述です。
数々の戦場になった瀬田の唐橋
織田信長は以前から近江の瀬田川(大津市)へ橋を架け替える計画を進めており、この7月12日が吉日だったので「立柱の儀式」が行われました。
「瀬田の唐橋」は他にも【瀬田橋】とか【勢多橋】などと記したり、古くから著名ですが、何と言っても代表的なのが【壬申の乱】でしょう。
東国で勢力を増した大海人皇子が、大友皇子軍と瀬田の唐橋で激突。
大激戦の末、敗れた大友皇子はほどなくして自害しました。
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同じく古代では藤原仲麻呂の乱(恵美押勝の乱)でも知られます。
孝謙上皇と揉めた藤原仲麻呂(恵美押勝)が琵琶湖で逃亡を図ったところ風で押し戻され、仕方なく陸路から瀬多橋を渡って近江へ向かおうとしました。
下記の地図をご覧ください。
京都から大津方面へ抜け、さらに北へ目指すときにどうしても渡らねばならない場所に位置しているのが瀬田の唐橋です。
大河ドラマ『麒麟がくる』でも足利将軍が一時避難をしていたように、近江は、京都から脱する最適なエリアだったんですね。押勝もそうして態勢を立て直そうとしました。
そこで、瀬多橋を焼いたのが孝謙上皇サイドだった吉備真備。秀才として知られ遣唐使船で留学した人物としても有名ですね。
行き場を塞がれた恵美押勝は、最終的に同族である藤原蔵下麻呂に斬られて、乱も終了とあいなりました。
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「瀬田の唐橋」に絡む争いはまだまだあります。
が、本題から離れすぎてしまうため、サックリとまとめておきましょう。
瀬田の唐橋が戦場となった戦い
【承久の乱】
後鳥羽上皇vs北条時房(北条義時の弟)
【建武の戦い】
足利直義vs名和長年
【観応の擾乱】
足利直義軍vs近江守護軍
これだけ重要な戦いが重なっていると、単なる因縁ではなく「交通の要衝」であることがわかりますよね。
そこで問題です。
信長は、この「瀬田の唐橋」を何のために架替工事を行ったのか?
『信長公記』にはこう書かれています。
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