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【瀬田の唐橋】
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意外? 信長の平和的道路政策
信長が架け直した「瀬田の唐橋」。その目的は『信長公記』にこう記されています。
・天下のため(世の中のため)
・旅人のため
なんだか綺麗事のように聞こえません?
もちろん商業的な狙いも強かったでしょう。
人の往来は、物資金融の流れに直結し、京都と安土や岐阜、大きく見れば尾張以東への交易に繋がります。琵琶湖を通じた流通も当然重要でしたが、架替の大きな理由は信長の「平和的道路政策」の一環だと著者の太田牛一は主張しております。
というと、こんな風に思われるかもしれません。
軍事的な目的もあったのでは?
織田信長は1568年の上洛以来進めてきた近江や畿内の領地化がかなり安定してきて、陸路でも大軍を動かせるようになった。より行軍速度を速めるには、京都付近での要衝・瀬田の唐橋の強化が必須。そんな見方は自然なようにも思えます。しかし……。
信長の道路政策は、以前から軍事目的ばかりでなく、利用者を考えて行われるケースがあったという指摘があります。
例えばルイス・フロイスはイエズス会との書簡の中でこう記しています。
「平坦な道路を造り、両側に木を植え、非常に大きな橋を架け、道中足をぬらさず歩行しうる」
※『道路の日本史 (中公新書)』(→amazon)参照
瀬田の唐橋に限らず、過去にも軍事目的で曲がりくねった道を真っ直ぐにしたり、景観を重視した工事を進めたり、戦国大名らしからぬ方針で進めていたことがあるのです。
ゆえに「旅人のため」というのが主目的だというのも、あながち嘘ではないんですね。
自分が架けた橋を自分で焼いた山岡景隆
今回のこの工事を任されたのは山岡景隆と木村高重の二名。
かくして「瀬田の唐橋」は幅四間(約7.3m)、長さ百八十間(約327m)という、かなり立派な橋として生まれ変わります。
ちなみに川からの視点で周辺エリアを見ておきますと……。
瀬田川というのは、淀川の上流になります。
琵琶湖から流れ出し、京都へ入る辺りまでの部分ですね。
それが京都に入ってからは宇治川と呼ばれ、途中で桂川・木津川と合流して狭義の「淀川」と呼ばれるようになります。
再び橋に注目しまして……面白いのは、工事担当だった山岡景隆でしょう。
【本能寺の変】が起きたとき、明智光秀に従軍を呼びかけられた山岡景隆は、それを拒絶。
自ら「瀬田の唐橋」を焼いて甲賀の山中に逃げ込んでいるのです。
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信長の命令で橋を架け、わずか7年後に自ら焼くことになるのですから、そのときの複雑な胸中はいかばかりか。
頑固一徹と一服してから帰る
瀬田で儀式を終え、岐阜への帰路についたのは、7月15日。
常楽寺に到着すると、翌16日は垂井(不破郡)に泊まりました。
7月17日には曾根(大垣市)の城主・稲葉一鉄の元に立ち寄り、ここでしばし休息をしたようです。
岐阜まではあとほんの少しですが、一鉄も永禄十年(1567年)信長の家臣となってから戦い続けてきた武将ですので、この機会に労をねぎらおうという目的があったのかもしれません。
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当時の織田家の城をざっくり見てみると、近隣の敵はおおむね片付いていました。
しかし遠方のことまで考えれば、東には武田、北は越前一向一揆、西は石山本願寺と、まだまだ敵が多い状態。いつ戦をするにしても、一鉄の力は必須です。
特に旅程を急ぐ必要もなく、近所を通りかかったから、少し落ち着いて話をしようか……という気にもなりそうですね。
一鉄は信長の来訪をありがたく思い、自分の孫たちに能を演じさせてもてなしました。
その褒美として、信長は稲葉貞通の息子(おそらく一鉄の孫・稲葉典通)に刀を下賜したそうです。図らずも、今回の上洛とその旅路は、文化的なものになったといえます。
信長はこの日のうちに岐阜へ帰還し、一ヶ月程度は地元に腰を落ち着けていました。
そしてまた、大きな仕事のために動き出します。
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信長公記をはじめから読みたい方は→◆信長公記
長月 七紀・記
【参考】
国史大辞典
『道路の日本史 - 古代駅路から高速道路へ (中公新書)』(→amazon)
『現代語訳 信長公記 (新人物文庫)』(→amazon)
『信長研究の最前線 (歴史新書y 49)』(→amazon)
『織田信長合戦全録―桶狭間から本能寺まで (中公新書)』(→amazon)
『信長と消えた家臣たち』(→amazon)
『織田信長家臣人名辞典』(→amazon)
『戦国武将合戦事典』(→amazon)