池田恒興と羽柴秀吉の肖像画

池田恒興と羽柴秀吉/wikimedia commons

豊臣家

三好信吉が大敗した「三河中入り」を発案したのは秀吉だった?池田恒興は冤罪か

徳川家康が小牧山城に籠もって守りの手薄になった岡崎を目がけ、三好信吉の羽柴別働隊が攻め込む――。

大河ドラマ『豊臣兄弟』第35回でも注目された“三河中入り”は、徳川軍の奇襲によって秀吉方の大敗に終わりました。

負けたのは一体誰のせいなのか?

敗因を考えると、呑気に飯を食っていた三好信吉か、あるいは徳川軍の動きを見落とした見張り役か。

見方は色々とありますが、そもそも池田恒興が言い出した作戦自体が無謀だったのではないか?という意見も出てくるでしょう。

ところが近年、この前提そのものが疑われています。

実は同作戦は「秀吉本人が言い出したことでは?」という指摘があるのです。

豊臣秀吉の肖像画

豊臣秀吉/wikipediaより引用

いったい何が本当なのか――まずは通説の三河中入りを踏まえ、史実面の考察も見てみましょう。

 


通説では恒興が二度にわたり秀吉へ訴えた

天正十二年(1584年)4月4日夜、池田恒興が秀吉本陣を訪ねました。

徳川家康が小牧山城へ籠もっているため、三河は守りが手薄になっているゆえ、そこを別動隊で突けば徳川軍は動揺して敗れるだろう。その役目をいただきたい。

池田恒興の肖像画

池田恒興/wikipediaより引用

秀吉はその場で返答はせず明言を避けると、翌5日の早朝、恒興が再び本陣へやってきます。

ぐずぐずしていては実行が難しくなる。

篠木や柏井では一揆が起きており調略を進めている。

こちらは大軍だから兵糧が足りなくなる前に、一刻も早く決着をつけるべきだ――。

ここまで訴えられて秀吉もようやく折れ、許可を出すと同時に恒興に向かって「敵を侮るな、疎懸(まばらがけ)をするな」と釘を刺したと伝わります。

疎懸とは「勝手気ままに攻めるなよ」という意味ですね。

 


軍記物がそろって恒興のせいにしている

問題はこの筋書きです。

『太閤記』をはじめ、『四戦紀聞』『戸田本三河記』『小牧陣始末記』『長久手合戦記』『勢州軍記』『長久手記』など、多くの軍記物に共通しています。

いくらなんでも記述が揃い過ぎていて、しかも共通した型まである。

池田恒興が強引に主張したため秀吉はやむなく許可した――つまり結果的には敗戦の責任が恒興や森長可に被せられるカタチになっているのです。

これが『当代記』となると、秀吉が熟慮のうえ決定して実行を命じた、と読める記述が残されている。

では、本当に言い出したのは誰だったのか。

研究者の平山優氏は著書『小牧・長久手合戦 秀吉と家康、天下分け目の真相』の中で、これほどの規模の作戦は秀吉自身が考え決定したと見るほうが自然だと述べています。

根拠として挙げられているのが、4月8日付で丹羽長秀へ宛てた秀吉の書状です。

そこで秀吉は、6日に池田恒興・森長可・三好孫七郎(のちの豊臣秀次)・堀秀政らの2万4000から2万5000の軍勢を小幡表へ差し向けたことを伝え、さらにこう書き添えていました。

三河方面へ軍勢を出発させる作戦なので、九鬼嘉隆も船団で向かわせる。

九鬼嘉隆とは、信長時代から有名な織田水軍の将であり、

九鬼嘉隆の肖像画

九鬼嘉隆/wikimedia commons

池田恒興らの別働隊だけでなく、海からも三河へプレッシャーをかけることが予定されていたのです。

もはや池田恒興一人の思いつきだけで決まり、動き出すような規模ではありません。

結局、三河中入りが失敗に終わったからこそ、敗戦の屈辱をごまかすため恒興が献策したというストーリーにしたのではないか、と平山氏は推測しています。

 

秀吉が狙っていたのは家康だった

もう一つ、作戦の目的から浮かんでくるものがあります。

秀吉は同じころ、こうも書き残していました。

大網を仕掛け、家康を取り巻き、即座に討ち果たすつもりだ――。

秀吉が倒したかったのは織田信雄ではなく家康であり、三河へ別動隊を送れば守りの手薄な本国が心配となって、徳川は小牧山城にいられなくなる。

そこで、家康が引き返そうとしたところを叩くか、一人残された信雄を屈服させるか。

織田信雄の肖像画

織田信雄/wikipediaより引用

どちらに転んでも得をする、そんな仕掛けでした。

そして中入りの目的が岡崎攻撃だったことも、秀吉自身が「岡崎方面へ深々と動き、一戦に及んで勝利を失った」と書いていることから確かめられます。

少なくとも、秀吉が作戦の目的と敗北を把握していたことは確認できます。

もちろん池田恒興が作戦に積極的だったこと自体は否定できません。

羽黒の戦いで敗れた汚名をすすぎたかったでしょうし、森長可も東美濃の反乱を抑えられずに焦っているという一面がありました。

それでも、彼らの判断だけで二万余の軍勢と水軍を動かせたとは考えにくい。

無謀な中入りを言い出したのは恒興だった――その筋書き自体が、負けたあとで書かれたものだった可能性があります。

なお、長久手の戦いに敗れた三好信吉(豊臣秀次)の関連記事が以下にございますので、よろしければ併せてご覧ください。

豊臣秀次の肖像画
三好信吉(豊臣秀次)はなぜ長久手の戦いで惨敗したのか|二万余の大将は肩書だけ?

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『豊臣兄弟』総合ガイド|登場人物・史実・出来事を網羅

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参考文献

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五十嵐利休

武将ジャパン編集管理人。 1998年に早稲田大学を卒業後、都内出版社に入社し、書籍・雑誌編集者として20年以上活動。歴史関連書籍からビジネス書まで幅広いジャンルの編集経験を持つ。 2013年、新聞記者の友人とともに歴史系ウェブメディア「武将ジャパン」を立ち上げ、以来、編集責任者として累計4,000本以上の記事の編集・監修を担当。 月間最高960万PVを記録するなど、日本史メディアとして長期的な実績を築いてきた。 戦国・古代・幕末・世界史の広範な執筆とSEO設計に精通。 ◆2019年10月15日放送のTBS『クイズ!オンリー1 戦国武将』に出演(※優勝はれきしクン) ◆武将ジャパン(団体)国立国会図書館典拠データ https://id.ndl.go.jp/auth/ndlna/001159873

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