徳川軍の主力が小牧山城に籠もり、手薄になった三河の岡崎へ攻め込む――。
「三河中入り」として知られる、この羽柴軍の奇襲作戦が失敗に終わったことは、大河ドラマ『豊臣兄弟』でも描かれましたね。
三好信吉の本隊が徳川軍に急襲されて壊滅。
池田恒興や森長可が討死までしますが、徳川軍は一体どうやって小牧山城を秘密裏に抜け出し、羽柴軍に接近できたのか。
ドラマでは「小牧山城の監視役が見落とした」とのことでしたが、果たしてそれは本当なのか。

徳川軍の動向について史実面から考察して参りましょう。
徳川方には中入りの情報が次々と届いた
まず確認しておきたいのが、羽柴別働隊の動向です。
上記のような2万余の大軍であり、その動きはやがて徳川方へ伝わりました。

豊臣秀次/wikimedia commons
平山優氏が軍記物などから整理したところ、家康のもとへ最初の一報が届いたのは4月6日とされます。
三河岡崎の商人から「秀吉方が岡崎を攻めるという風聞がある」と届けられています。
翌7日の申刻(午後4時頃)には、篠木(しのぎ)・柏井(かしわい)の村人が秘かに小牧山城へやってきて、池田恒興らの軍勢が三河へ向かうと伝えました。
皮肉なことに、この村々は秀吉方が調略して味方に引き入れようとしていた相手です。
表向きは秀吉に味方しておき、裏では家康にも恩を売っておいて、戦後、どちらが勝者になっても覚えをよくしようと村々も考えていたのかもしれません。
羽柴軍が岡崎へ向かっていることは、7日夜、森長可の陣へ潜り込ませた忍びからも報告があったとされます。
そして8日の早朝、春日井郡如意村の石黒善九郎が小牧山城へ駆け込み、池田軍の様子を詳しく織田信雄と徳川家康へ言上しました。
商人、二組の村人、そして忍び。
ここまで揃えばもはや疑いようはなく、家康は「別動隊を追撃して叩き潰す!」と決心します。
しかし、追撃には大きな危険があります。
旗を巻いて夜の道を進んだ
小牧山城を出たことが、楽田城(がくでんじょう)の秀吉に知られたらどうなるか。
秀吉はただちに大軍で徳川軍の後を追い、別動隊と挟み撃ちにするでしょう。
下手をすれば徳川軍は殲滅されかねませんし、羽柴軍本隊もその状況を今か今かと待ち望んでいるところでしょう。
さて家康は、どうすべきか?
二段構えで進軍させよ――。
家康が命じたのは、部隊を2つに分け、先発組と後発組で出陣させる戦術でした。
そこで、まず先手として出たのが、榊原康政・大須賀康高・岡部長盛・水野忠重ら4500余。
彼らは8日の戌刻(午後8時頃)に小牧山を出たとされ、敵陣に気取られぬよう旗を巻きながら、静かに進んだと伝わります。

榊原康政/wikipediaより引用
南外山から勝川、上条を経て庄内川を渡り、小幡城を目指すルート。
一方、後発組の家康自身は、亥刻(午後10時頃)に本隊を率いて出陣することにしました。
このとき小牧山城には、酒井忠次・石川数正・本多忠勝ら5000余と織田信雄勢1500余が留守居として残っていて、小牧山城を空にはしていません。
家康が連れ出したのは井伊直政部隊と旗本ら6000余で、信雄も3000余を率いて続きました。
それにしても、です。
いくら夜道とはいえ、なぜ、これだけの部隊が進軍していて、羽柴軍は全く気付かなかったのか?
抜け穴ではなく、空堀の底だった?
織田・徳川連合軍は計1万を超える軍勢でした。
楽田城の秀吉に気付かれず、移動をするとしたら、地下にトンネルでも構築したのか?というと、そうした記録や遺構は発見されていません。
現実に考えられるのは“堀”でしょうか。
楽田城側から見通しにくい空堀の底を通り、軍勢を移動させる――。

井伊直政の銅像/photo by 戦国未来
なるほど、その確率が高そうですが、研究者の平山優氏は『小牧・長久手合戦 秀吉と家康、天下分け目の真相』の中で、それを明確に示す史料は見つかっていないと指摘しています。
一方、家康が、開戦直後からこの城を大改修し、何かと強化していたことは知られています。
例えば、山麓に5ヶ所の虎口(こぐち)を設けていましたが、そのうち南東隅と東の虎口だけが、大空堀の底へ向かって開口していた。
橋を架けて堀を渡るための造りではない。
では、いったい何のための出入口なのか?
城郭研究者の千田嘉博氏は、長久手の戦いのとき織田徳川連合軍はこの虎口から堀底を通って移動したため、楽田方面の秀吉方に気づかれなかったのではないか、と考察しています。
城の構造と軍勢の動きが結びつく、興味深い説です。
ただし、夜陰や旗を巻く工夫など複数の要因も考えられ、現段階では可能性の一つに留まります。
最後に、徳川軍はその後、どうやって羽柴軍へ襲いかかったのか?という点も見ておきましょう。

イラスト・富永商太
最後尾を狙えという献策
徳川の先発組は榊原康政・大須賀康高・岡部長盛・水野忠重ら4500余。
後発組は井伊直政部隊と家康の本隊6000余と信雄3000余。
小幡城へ入った榊原たちは、ただちに敵情を探りました。
小幡城を守る本多広孝が放った物見の報告によると、秀吉方の別動隊は小幡城ではなく三河方面へ移動中だと判明します。
では、どう攻めるのがよいか?
大軍に正面から当たるのは得策ではなく、背後を進み、最後尾を叩くのがよいと水野忠重が提案します。

水野忠重/wikipediaより引用
榊原康政ら諸将はこれに賛同し、亥刻に小幡城を出陣しました。
「正面から当たらない」という判断が効きましたね。
一方、狙われた側はどうだったか。
軍記物によれば、4月9日の明け方、別動隊の最後尾にいた三好信吉(後の豊臣秀次)の本隊は、白山林(はくさんばやし・愛知県尾張旭市)で軍勢を休ませ、朝ごはんをとらせていたとされます。
近づいてくる軍勢に気づいた者もいたとされますが、「徳川勢が小牧山城を出た」という報告がなく、全軍で弛緩していたのでしょう。
気がつけば榊原部隊に背後から襲われ、三好信吉の本隊は壊滅状態となり、信吉自身も戦場から逃れるしかありませんでした。
かくして長久手の戦いは徳川・織田方の勝利に終わり、羽柴方は池田恒興父子と森長可を失うという大打撃を喰らったのでした。
ただし、この一戦に動じるような秀吉でもありません。
あくまで序盤の一戦闘に過ぎず、それから約7ヶ月もの長い長い合戦は続くのでした。
なお、親子で討ち取られて話題になった池田恒興の池田家については、以下に関連記事がございますので、よろしければ併せてご覧ください。
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池田恒興も嫡男も長久手で討死|それでも池田家はなぜ滅びなかった?
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参考文献
- 平山優『小牧・長久手合戦 秀吉と家康、天下分け目の真相』(2024年12月 KADOKAWA)
- 藤井讓治『徳川家康 人物叢書300』(2020年1月 吉川弘文館)
【TOP画像】左から井伊直政・徳川家康・榊原康政/wikimedia commons

