大河ドラマ『豊臣兄弟』で三好信吉(後の豊臣秀次)が話題となっています。
一言でいえば性格が悪い。
山田涼介さんが演じるだけに、貴公子然とした人物像を想像していた方も多いでしょう。ところが実際は……。
権力者・秀吉の前では神妙に。
秀長の前では味方のミスをボロカスにこき下ろす。
そんな二面性があり、思いやりの欠如したヤバい奴になっているのです。
実際、秀次はそんな人物だったのか?という人物像の考察記事は以下に譲り、
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織田信雄も三好信吉も性格ヤベェ奴だったのか?豊臣兄弟第35回史実解説
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今回はその原因について考察してみたいと思います。
三好信吉(豊臣秀次)の性格が歪んでしまったとしたら、いったい原因は何だったのか?
やはり秀吉だった?

豊臣秀吉/wikipediaより引用
宮部吉継から三好信吉へ
後の三好信吉を確かな史料で初めて確認できるのは、天正九年(1581年)5月21日の文書です。
「宮部次兵衛尉吉継(みやべ じひょうえのじょう よしつぐ)」
当時は宮部継潤(けいじゅん)の養子に入っていたため、養父から「継」の一字をもらい「吉継」と名乗っていたわけですね。
大河ドラマ『豊臣兄弟』でも注目されましたので、覚えていらっしゃる方も多いでしょう。

継潤は、もともと比叡山の山法師だったと伝わる異色の武将。
北近江・浅井家に仕えていたところを秀吉に誘われて織田方へ移り、その後は弟・秀長を支えながら播磨、但馬、因幡へと転戦し、信頼も厚く鳥取城を任されるほどになっていました。
秀吉や秀長にとっては股肱の臣ですね。
しかし、天正十年(1582年)6月、全ての歯車が一気に狂います。
本能寺の変が勃発し、三好信吉は二度目の養子に出されることになりました。
行き先は阿波の三好康長(やすなが)で、このとき名字が「三好」となり、三好孫七郎信吉へ変わるのです。
康長は三好長慶の一族で、織田信長に抵抗した末に投降しており、以後、三好勢の実質的な継承者として信長軍に加わっていました。
実はこの三好家、本能寺の変直前には、信長が三男・織田信孝を養子に入れる構想を進めていました。
四国の長宗我部攻略に三好の力を使うためです。

織田信孝(神戸信孝像)/wikipediaより引用
ところが信長の横死後、信孝が織田家の家督候補となったため、この養子構想は消滅。
代わって三好康長の養子となったのが、宮部吉継あらため三好信吉だったのです。
秀吉から見れば「してやったり!」だったでしょう。
信吉本人の意志など関係なく、秀吉の権力はかくして固められていきました。
有能な武将も同時に引き抜き
三好信吉という名前の作り方も、秀吉の“政略”が透けて見えます。
研究者の黒田基樹氏は『羽柴秀吉一門 シリーズ・織豊大名の研究13』の中で、「信」は織田家の通字であり、その偏諱を受けて旧名「吉継」の「吉」に冠したのが「信吉」だと述べています。
養父(宮部継潤)の一字を捨て、織田家の一字をかぶせる。
◆宮部吉継……養父・宮部継潤の「継」
◆三好信吉……織田家の通字「信」
◆羽柴信吉……三好姓を羽柴姓へ改める
◆羽柴秀次……叔父・羽柴秀吉の「秀」
天正十二年(1584年)には三好の苗字も手放して羽柴姓となり、同じ年の10月には「秀次」と署名するようになりました。
名乗りが変わるたびに、一字を与えた相手が入れ替わっているわけですね。
なぜ信吉は、二度も他家へ出されたのか。
研究者の諏訪勝則氏は黒田基樹・柴裕之編『戦国武将列伝 別巻2 豊臣編』の中で、秀吉が、因幡を任せた宮部家を吸収合併し、さらには畿内や阿波の三好権力を取り込んだのだろうと述べています。
家を一つ手に入れるたびに、甥の名前を変えながら挿し込んでいく。
現に秀次は、宮部家の家臣だった田中吉政を、そのまま自分の家老として引き継いでいます。

田中吉政(真勝寺所蔵)/wikipediaより引用
池田家縁談の駒にも使われた
養子入りだけではありません。
天正十年(1582年)に秀次は織田家宿老・池田恒興の娘と婚約し、翌年に結婚しています。
この縁談がいつ決まったのかについては、山崎の戦いの直前、秀吉が恒興を味方へ招くために持ちかけたとみる説もあります。

池田恒興/wikipediaより引用
一方、大河ドラマ『豊臣兄弟』の時代考証も務める黒田氏は、同年10月から始まっていた織田家中の権力争いで、すでに味方についていた恒興との関係を深めるための婚約だったと見ています。
縁談の性格が微妙に変わってきますね。
いずれにせよ婚約からほどなくして、秀次は摂津の兵庫城と三田城を請け取ると、やがて尼崎城を本拠としました。
摂津国主だった恒興は、入れ替わりで美濃へ。
すべては秀吉が天下人となるため、恒興も秀次も駒となるような歩み方でした。
※秀次の正室は菊亭晴季(きくていはるすえ)の娘「一の台」とされることも多いですが、黒田氏は池田恒興の娘と判断
賤ヶ岳では出番がなかった
天正十一年(1583年)4月、羽柴秀吉と柴田勝家が賤ヶ岳で激突。
このとき秀次にこれといった見せ場はない一方、同じ戦場では福島正則や加藤清正、加藤嘉明といった若者たちが敵将を討ち取り、5000石や3000石を与えられました。
いわゆる「賤ヶ岳の七本槍」の面々ですね。

賤ヶ岳の七本槍メンバーの肖像画/wikimedia commons
研究者の小和田哲男氏は、同世代が大手柄をあげて大禄を得るのを間近に見ていただけに、秀次の無念はいっそう募ったと見ています。
その思いが、翌年の無謀な行動へ結びついてしまったと指摘――そう、大敗した長久手の戦いです。
三好信吉は2万を超える別動隊の大将となるも徳川軍の奇襲を受けて惨敗。
舅の池田恒興や相婿の森長可まで討死する、大惨事となりました。
三好姓を最後に確認できるのが同年3月13日で、羽柴姓の初見が6月21日ですから、4月9日の長久手の戦いは改姓の狭間にあたり、当日の名乗りは断定できません。
さらに天正十三年(1585年)9月を最後に「孫七郎」が見えなくなり、10月には宮部時代の「次兵衛尉」を再び名乗っています。
黒田氏は、この孫七郎をやめたこと自体が三好家との離縁を示すのではないかとみています。
二つの家を渡り歩いた末に、最初の呼び名へ帰ってきたんですね。
しかし……。
三好信吉に、自分の意志はあったのでしょうか。
ドラマの歪んだ性格はここから来ているのか
養子入り先も、名前も、結婚相手も。
決めたのは全て叔父、秀吉です。
宮部家へ出されたのは秀吉と宮部継潤の関係を強めるためとみられ、三好家へ移されたのは畿内や阿波の三好勢力を取り込むためでした。最後は仮名も宮部時代のものへ戻っています。
結婚も、池田家から秀吉方へ兵庫城・三田城が割譲された動きと連動していたとみる説があります。
自分の意志など入る余地は、どこにもありません。

豊臣秀次/wikimedia commons
そう考えると、大河ドラマ『豊臣兄弟』の第35回で描かれた姿も、少しは見え方が変わってくるかもしれません。
長久手の敗戦について、秀吉の前では神妙に頭を下げておきながら、秀長と二人になった途端に「私の責任じゃないから」と開き直る――。
叔父の都合で名前まで付け替えられ続けた人間が、その叔父の前で本音を出せるわけがない。
そもそも当時の信吉は数えで17才。
※永禄十一年生まれの場合
軍事の経験もほとんどないまま2万余の大将など務まるはずもなく、それでもアピールしなければならないほど追い込まれていたのかもしれません。
むろん、これはあくまでドラマの見方。
史実で、どんな風に思われていたのか?という点は以下の関連記事をご覧ください。
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三好信吉(豊臣秀次)はなぜ長久手の戦いで惨敗したのか|二万余の大将は肩書だけ?
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参考文献
- 黒田基樹・柴裕之編『戦国武将列伝 別巻2 豊臣編』(2026年7月 戎光祥出版)※諏訪勝則「羽柴秀次」
- 黒田基樹『羽柴秀吉一門 シリーズ・織豊大名の研究13』(2024年11月 戎光祥出版)
- 小和田哲男『豊臣秀次 「殺生関白」の悲劇』(2002年3月 PHP研究所)


