武田二十四将や徳川十六神将など。
戦国時代の有力武家には、武勇を称賛される強者たちがおりますが、豊臣家で真っ先に思い出されるのが「賤ヶ岳の七本槍」でしょう。
そして、知名度は低くとも、今回注目をして頂きたいのが「大坂七将星」です。
大坂の陣に散った
・真田信繁
・毛利勝永
・長宗我部盛親
・明石全登(てるずみ)
・後藤基次
・大野治房
・木村重成
という七名で、後世で「大坂七人衆」とも呼ばれたり、あるいは先頭の三名で「大坂三人衆」とされたり。
いずれも個々の“事情”から大坂城入りしたメンバーですが、最初から運命と定められていたかのような儚い武将がいます。
木村重成です。
何と言っても、享年21ともされる若さ。
それというのも豊臣秀頼の乳兄弟とされ、若くして重く用いられていたからです。
つまりは「コネ枠」か……というのは誤解でして、重成は年若くとも武勇や知力にすぐれ、容貌も美しかったことから次のような歌まで詠まれています。
梅が香を 櫻(さくら)の花に 通わせて 柳の枝に 咲かせてしがな
まるで歌舞伎役者のようですが、実際、浮世絵の素材にも度々用いられ、それだけに目を引くエピソードも数多く残されました。
では木村重成とはどんな武将だったのか?
その生涯を振り返ってみましょう。

木村重成/wikimedia commons
秀吉の重臣・木村重玆の次男
木村重成の出自は、はっきりとしておりません。
一般的には豊臣秀吉の重臣であった木村重玆(しげこれ)の次男とされます。
重玆は、秀吉の甥・豊臣秀次の家老として次期政権の中枢にいた人物ですから、そのままであれば将来安泰のポジションでした。
しかし、事はそう上手くいきません。
秀次は謀反の疑いをかけられ、高野山で切腹へ追い込まれます。

豊臣秀次/wikipediaより引用
プレッシャーに耐えかね勝手に自害したという説もありますが、いずれにせよその結果を受けて秀吉は激怒、一族郎党は六条河原で処刑されたり、家臣たちにも切腹が命じられたりしました。
重玆とて例外ではありません。
長男と共に主君の後を追って切腹。
重玆と秀次については、今なお亡霊が高野山にさまよい出るとして、古典『雨月物語(うげつものがたり)』の「仏法僧(ぶっぽうそう)」に登場しております。
次男である重成は幼かったため、死を免れたとされます。
大坂城へ登る春千代
木村重成の幼名は春千代と言います。
幼い頃から色白く、気高く優美な面立ちだったと伝えられます。
幼くして父と兄を失った春千代は、母の宮内卿局(くないきょうのつぼね)が豊臣秀頼の乳母であった縁から、親子揃って大坂城へ登り、幼い秀頼の小姓として仕えたと伝えられます。

豊臣秀頼/wikipediaより引用
この伝承が事実ならば、重成と秀頼は乳兄弟の間柄だったことになります。
織田信長と池田恒興、古くは木曽義仲と今井兼平のように、乳兄弟は非常に結びつきの強い間柄です。
だからでしょうか。秀頼は、重成の元服後に3000石を与えて長門守とし、重要な会議などにも出席させるなど、全幅の信頼を置いていました。
春千代だった重成の少年時代には有名な逸話があります。
春千代は大坂城で育ったのではなく、亡父の友人・佐々木義郷(よしさと)の元で育ったというものです。
わずか5歳の春千代に対し、母は、こう伝えました。
「女手一つでは武芸百般、十分な教えはできない。一人前の武士となるまでは、二度と母には逢えぬと思え」
学問や剣術を学ぶため母と別れた春千代は、幼いだけあっていたずら盛り。近所の子供らと喧嘩はする、学問をずるけて戦ごっこに興じることもあります。
ついにはある日、義郷から諭されました。
「人間にとって最も大事なものは学問でも剣術でもない。堪忍だ。己をいましめて辛抱する心である。お前にはそれが足りない」
利発だった少年の春千代にその言葉が刺さったのでしょうか。それからは人が変わったように精進するようになったと言います。
そして17歳で元服。大坂城へ登ることに決め、長年世話になった義郷にこんな別れの言葉を告げました。
「人はただ名こそ惜しけれ。わたくしは父が仕えた大坂へ参り、天晴の働きをして父に着せられた汚名を晴らさんと思います」
残念ながらこのエピソードは史実として認められませんが、「木村重成の堪忍」は非常に人気のあった話で、かつて子供に「辛抱」を教える時には取り上げられてきました。
今福砦の激戦!命をかけて部下を救う
豊臣秀吉は死を迎えるにあたり「秀頼を頼む」と徳川家康へ遺言していました。

豊臣秀吉/wikipediaより引用
しかし家康が従うはずもなく、その後、関ヶ原の戦いを経て、政権の主導権は徳川家康へ移っていきます。
不満が募る一方の大坂方は、真田信繁(幸村)や後藤又兵衛、長宗我部盛親ら、先に挙げた大坂七将星などの将や数多の牢人を迎え入れます。
時は慶長19年(1614年)10月、徳川方と一戦を決する大坂冬の陣です。
秀吉が心血注いで築き上げた大坂城。
いざ大坂冬の陣が始まると、真田丸での善戦もあり、戦況は一進一退で膠着状態が続いておりました。
しかし、関ヶ原で態度を曖昧にして減転封された佐竹義宣(よしのぶ)が8,000の兵を率いて、守りの隙を突きながら一気に攻め寄せてきました。
慶長19年(1614年)11月25日、大坂冬の陣で最も名高い「今福砦の激戦」です。

佐竹義宣/wikipediaより引用
ここで初陣を飾ったのが当時二十歳の木村重成でした。その激しい戦いぶりが講談の中に描かれているので紹介しましょう。
佐竹軍の勢いはまさに破竹のごとく、一の木戸、二の木戸と次々打ち破り、大坂方は三の木戸で必死に守りましたが、それも持ちそうにない。
そこで大谷の苦戦を知った重成が5,000の兵を率いて参戦。
馬を真っ先に踊らせて敵軍の中に斬って入り、敵の大将・小山勘兵衛をものの見事に討ち取ります。
突如現れた重成の援軍に、耐えきれなくなった敵は総崩れで逃げていく。一息ついた重成が部下たちの様子を確認すると、さっきまでいたはずの大井何右衛門(かえもん)の姿がありません。
「大井はどうした!」
側の者に尋ねれば「先ほど、敵と組み合って落馬を……」という答えが返ってきました。
聞くなり重成は顔色を変え、すぐさま馬に鞭打って駆け出していきます。
「大井はいないか! 何右衛門は無事か!」
すると「殿、殿……」と、かすかな声が聞こえてきます。敵の首を取った大井は、自身も深手を負って動けなくなっていたのです。
重成は馬から飛び降りて大井を救い出そうとしましたが、その瞬間、再び盛り返して迫ってくる敵軍の姿が目に入りました。
「あれこそは木村長門守重成! 討ち取れ!」
重成の姿を見つけた敵軍60騎が迫ってくると、大井は悲痛な声で「わたしを捨ててお引き取り下さい!」と叫びます。

木村重成の浮世絵(月岡芳年作)
しかし重成は頑として、大井を捨てようとはしません。
「何を言うか! 乗れ! 俺につかまれ!」
と、片手に太刀を取り、片手に大井を抱いて、迫りくる敵を斬り抜けながら城へ駆け戻っていった――。
この講談のエピソード、史実では、大井何右衛門が戦場で倒れているのを発見した重成が、敵の鉄砲や騎馬の襲撃に対しても怯まず自ら殿(しんがり)を務め、味方に大井を運ばせたと伝えられます。
講談そのままではないにせよ、重成が部下を救おうとした逸話には、史実に近い核があったと考えられます。
なお、大井を救った重成の行いは
「日露戦争で沈没しかけた船の中を、最後まで杉野兵曹長を探し求めた広瀬中佐の行いを思い出さずにはいられない。部下を思う名将の心は古今変わらないものだ」
と、長く語り伝えられました。
家康と対面し血判取りの大役
大坂冬の陣は戦況が泥沼化。
やがて豊臣方と徳川方で和睦交渉が開始されました。
このとき豊臣方の使者として選ばれたのが、他ならぬ木村重成です。
『大坂冬陣記』によれば、和睦交渉が行われたのは茶臼山にある家康の本陣で、同年12月21日のこと。
和睦交渉についても重成の有名なエピソードが残されているので紹介しましょう。
12月21日当日、重成の装束は、白の小袖に浅黄(あさぎ)の小袖を重ね、麻裃(かみしも)を着て、葦毛の馬にまたがるという立派なものでした。
本陣にいたるまで関東方の武士たちがずらりと並び、中には槍を突き付ける者も。
「控えよ。内大臣豊臣秀頼御名代、長門守である。まかり通るぞ」
重成は涼しい声でこう答えると、静々と馬を進めていきます。
やがてたどり着いた茶臼山の本陣――左右に居並ぶ武将たちは京極、本多、松平、秋元、と名だたる面々です。
大坂方から参るのは誰か?と身構えていた家康は、孫世代の重成を見て舐めてかかります。
「木村長門であるか。その方の父、常陸介(ひたちのすけ)とは親しい間柄であったぞ。うむ、よく似ておる」
「今日は秀頼の御名代として参りました。私事のお話は御免こうむります」
どこか弛緩した家康に対し、キッパリと言い切る重成。

徳川家康/wikipediaより引用
豊臣と徳川の両家が天地神明に和睦を誓った神文が取り出され、重成に渡されました。
と、その中身をあらためた重成は眉をひそめます。書名の下に捺してある家康の血判が、非常に薄かったのです。
重成はすぐさま神文を突き返し、こう告げます。
「この御判はあまり薄すぎるようでございます。失礼ではございますが、もう一度捺していただきとうございます」
家康は、しぶしぶ小刀で小指の先を斬り、血判を捺し直します。
重成はその血判を火鉢にかざし、こう語りました。
「世間には血判の際に血潮と見せかけて紅をつけるものもままござって、油断が相ならん。しかし、紅は火であぶれば青く光り、血なれば黒みを帯びる。このご血判はまさしく大御所(家康)公の御血潮。確かに頂戴つかまつりました。これにて和睦もめでたく整い、恐悦至極に存じたてまつる」
そして、その場に平伏したのでした。
弱冠二十歳の重成が、天下人・家康に対して堂々と抗議したというこのエピソード。
『慶長見聞書』にはこう記されています。
「家康公御前に召出され、長門守(木村重成)に御起請御渡し成られ候ところ、頂戴仕候て、拝見致し申上候は、『御血判、少しく薄く御座候』」
実際はどうだったのか?
というと、家康の起請文には花押が捺されることが多く、本当に血判を捺したのかは分からない、とも指摘されます。
また、実際に誓書を受け取ったのは、2代将軍徳川秀忠(ひでただ)であったことから、上記の話は後世の創作であり、家康との接触はなかったかもしれないとのこと。
真偽は闇の中ですが、重成の人となりを表すエピソードには変わりないことと思われます。
大坂城の花と散る
こうして木村重成が苦労して結んだ和睦は、半年もたたずに破綻してしまいます。
和睦後の堀埋めをめぐって豊臣方の不満が高まり、両者の関係は再び悪化します。
「大坂城の外堀を埋めても良い」とありましたが、家康は数万の人足を繰り出し内堀までも埋めてしまったのです。
角櫓(かどやぐら)、城門がみるみるうちに崩され、埋められていくのを見ながら、諸将たちは悔し涙を流したといいます。
内堀を埋めることも交渉で決まっていたという指摘もありますが、いずれにせよすぐに次の戦いは来ました。

翌慶長20年(1615年)5月、大坂夏の陣です。
重成が率いるのは約4,700の兵。大坂城は堀もなく、もはや長くは持たない。
今こそ秀頼の御為に命を捨てる時――と、5月6日の午前2時頃、重成は大坂城を発ちます。
若江方面(大坂府東大坂市)に打って出た木村軍は先鋒の藤堂高虎と激しく衝突しました。
覚悟を決めた木村軍の勢いはすさまじく、藤堂良勝を討ち取り、藤堂隊は兵の半数を失って敗走。
このとき重成は家臣から「兵たちに疲労の色が濃いので、いったん引き揚げては」と提案されますが、聞き入れませんでした。
大将首を挙げるまでは退かないという覚悟だった、と伝えられます。
軍をさらに進め、井伊直孝(なおたか)率いる軍勢へ駆け向かいました。
徳川の赤備えとして有名な井伊の部隊。
兜も鎧も旗指物(はたさしもの)も燃え立つばかりに真っ赤な軍勢、その強さは関東方第一と言われていました。
しかし、死を覚悟した重成軍の奮戦を前に、さしもの井伊の赤備も崩され、浮足立ちます。
激怒した井伊直孝は、自ら軍勢を率いて突撃してくるほど。

井伊直孝/wikipediaより引用
戦場は大混戦を極めました。
木村軍は目覚ましい働きをしました。
が、その身は鉄石ではありません。早朝から休みなく戦ったために、誰もが疲労困憊であり、徐々に劣勢となっていきます。
やがて木村勢は孤立し、重成は敵陣に1人、槍を持って突撃。
慶長20年(1615年)5月6日、享年21。
大坂城の名花一輪――そう讃えられた名将は、懐かしい城をかなたに仰ぎつつ、壮烈な最期を遂げたのでした。

木村重成を描いた浮世絵(歌川芳虎作)/wikipediaより引用
香を焚きしめた兜
5月6日の夕暮れ、徳川方では、各陣で討ち取った首にそれぞれ名札を付け、家康公の御前へ供えました。

木村重成の首実検をする徳川家康を描いた浮世絵/wikipediaより引用
このとき初めて、重成の戦死を知った家康公。
「おお、長門が落命いたしたか」
近侍(きんじ)の一人に兜を脱がせると、首の髪の辺りから、名香の薫りが立ち上ってきました。
よく見れば、再び着すまじき覚悟を示して、兜の忍び緒が切り離してあります。
「さては、覚悟の討ち死にであったか……」
感じ入って落涙してしまう家康。
「その昔、新田左中将(にったさちゅうじょう)は、兜に名香を焚きこめて討ち死にされたということだ。若年の長門が、かかるゆかしき嗜み(たしなみ)をいたしたとは、返す返すも惜しい若者を殺したことである」
木村重成の人となりをいたく惜しんだ家康は、後に秘蔵の白梅の鉢植えに「木村の梅」と名付けたとのことです。
このエピソード「薫る忠魂、とこしえに芳し」と、数多く伝えられる木村重成の逸話の中でも大変人気のあるものですが、真偽のほどは不明。
しかし、こうしたエピソードが伝えられるほどに、木村重成の誠忠が人々に深い印象を与えたことは確かでしょう。
大坂中之島公園には「木村長門守重成 表忠碑」という石碑が建てられて、今なお重成の忠魂を伝えています。

大阪府大阪市北区中之島公園にある木村重成表忠碑/wikipediaより引用
なお、豊臣秀頼の生涯については以下の記事をご参照ください。
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豊臣秀頼は滅びの道を歩むしかなかった?秀吉と淀殿の息子 儚い23年の生涯
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