1633年3月5日(寛永10年1月25日)、戦国大名の佐竹義宣が亡くなりました。
もしかしたら「鬼義重」こと父親の佐竹義重を思い浮かべた方もいらっしゃるかもしれません。
義宣はその息子。
実は二人のご先祖様は武田信玄と同じ源義光であり、武田家や今川家などと同じ名門武家出身の戦国大名と言えるでしょう。
しかし、この佐竹、武田や今川のようには滅びません。
必ずしも万全な手法とは言えないながら、戦国末期のピンチを乗り越えると、秀吉に重用され、そして徳川政権でもどうにか大名(藩主)として生きていくのです。
では一体どんな手腕で生き残ったのか?
佐竹義宣の生涯を振り返ってみましょう。

佐竹義宣/wikipediaより引用
お好きな項目に飛べる目次
お好きな項目に飛べる目次
生い立ち
佐竹義宣は元亀元年(1570年)、常陸国太田城に生まれました。
父は常陸の大名・佐竹義重、母は伊達晴宗の娘という、戦国大名のハイブリッド。
この頃の伊達家は婚姻や養子による縁組で勢力を拡大しており、佐竹氏もその関係で縁戚になっていました。
とはいえ親戚だからといって仲良くしようということにはならず、血縁者同士の戦も頻発しています。

伊達晴宗/wikipediaより引用
義宣の幼少期や元服の時期は不明です。
名前は、南北朝時代のご先祖である佐竹氏10代・佐竹義宣にあやかったのかもしれません。
従兄弟であり、宿敵とも言える伊達政宗も、ご先祖である伊達氏9代・伊達政宗にあやかった命名ですしね。
しかも、この二人のご先祖様は同世代に生きていました。
◆佐竹義宣(1346-1389年)
◆伊達政宗(1353-1405年)
単なる偶然ですが、両家の因縁を考えるとちょっと面白い状況ですよね。
佐竹と伊達は、以下のようにかなり激しく戦っているのです。
・天正十三年(1585年)人取橋の戦い
・天正十六年(1588年)郡山合戦
二つの戦いはいずれも戦闘的には痛み分け、政治的には伊達氏が有利な形で終わっていました。
さらに天正十七年(1589年)7月になると、蘆名義広が【摺上原の戦い】で敗北します。
佐竹義宣と関係ないじゃん?
というわけにもいかないのは、蘆名義広が義宣の実弟だったから。蘆名盛隆の娘と結婚して家督を継いでいたのです。
政宗は、この蘆名の地に執着しており、ようやくの思いで獲得。
南奥州の諸大名が伊達氏についてしまい、佐竹氏は孤立化を深めてゆきました。
家督継承と豊臣への接近
摺上原の戦いのあった天正十七年(1589年)、佐竹義宣は正式に家督を継ぎます。
とはいえ、父の佐竹義重は壮健であり、実権は手放していません。
義宣が20歳になったので、後継者を明らかにしておくことが目的だったのでしょう。
それに最大の難敵だった伊達政宗が、佐竹氏を挟み撃ちするように小田原の北条氏直や北条氏照と盟約を結んでいて、若い義宣だけではとても捌ききれない状況でもありました。
伊達氏は政宗の父・伊達輝宗の頃から遠交近攻を方針としている傾向があり、後北条氏や織田氏などと誼を通じていたのです。

伊達輝宗/wikipediaより引用
これに対し、佐竹氏も生き残りをかけ、急速に台頭してきた秀吉に連絡を取り、豊臣氏を後ろ盾にしようと試みます。
窓口となったのは石田三成。
天正十八年(1590年)、その工作が実を結びます。秀吉による北条攻略、【小田原征伐】が始まったのです。
万々歳の佐竹に対し、困ったのが伊達でした。
政宗は、家中の意見が割れたことや、本人が秀吉を侮った故に参陣が遅れ、それをキッカケとして豊臣政権から圧迫されていきます。
まぁ、それでもしぶとく生き残っていくからこそ政宗って面白いんですよね。
無事、秀吉に認められた佐竹氏は常陸と下野の所領を安堵され当面は安泰となりました。
※続きは【次のページへ】をclick!