出自は足軽とも百姓ともされる豊臣秀吉。
関白にまで大出世を果たす中で、その頭脳をもってしても簡単には解決できない悩みがありました。
信頼できる家臣団です。
天下人や為政者にとって絶対に欠かせないのが、自分の手となり足となり、ときには相談者にもなり監視役にもなる部下や仲間たちでしょう。
その点、信長には「織田信長公三十六功臣」がおり、武田信玄には「武田二十四将」、あるいは徳川家康にも「徳川二十八神将」など、名だたる戦国大名には古くから仕える家臣や一族など、強固な結びつきがあるものです。
では、豊臣秀吉は?
哀しいかな、下層階級の出身とされる秀吉に代々続く家臣などいるはずもなく、天下人になるからには、自分一代で有能な部下を必死に集めねばなりませんでした。
石田三成や加藤清正、福島正則などがその代表ですが、では彼らはいつ頃から、秀吉とはどんな関係で付き従うようになったのか?
豊臣家臣団のメンバーを振り返ってみましょう。

イラスト/富永商太
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1560年代~1572年 初期の出仕組
豊臣秀吉が「木下藤吉郎」と名乗り始めた時期。
自身が織田家の新参者に過ぎなかったこの頃、秀吉と知り合い、そして仕えた者たちが、豊臣家臣団の中では最古参メンバーとなります。
その代表はやはり蜂須賀正勝(小六)でしょう。

蜂須賀正勝/wikipediaより引用
永禄七年(1564年)頃に秀吉へ仕えたとされ、フィクションでしばしば「秀吉の親友」として描かれるのは最も古いメンバーの一人だからですね。
実は生駒親正もこの世代になります。
永禄九年(1566年)に織田家へ仕え始め、その後、秀吉の与力になりました。

生駒親正/wikipediaより引用
そして前野長康も同様。
「蜂須賀・生駒・前野」の三家は互いに婚姻関係を結んだ親族となっており、公私ともに結束していたと思われます。
意外に不明なのが竹中重治(半兵衛)です。

竹中半兵衛/wikipediaより引用
永禄十年(1567年)に重治の主君だった斎藤龍興が美濃を追放。
その後、重治も秀吉軍の一員として元亀元年(1570年)には浅井氏の家臣・堀秀村の調略をしているため、その間のどこかで仕えたと思われます。
元亀元年(1570年)には一柳直末(ひとつやなぎ なおすえ)も秀吉に仕え始めています。
天正十八年(1590年)、小田原征伐の緒戦である山中城攻めで直末が討死した際、弟の直盛がその場をまとめているため、おそらく直盛も同時期から秀吉に仕えていたのではないでしょうか。
◆初期の出仕組
・蜂須賀正勝
・生野親正
・前野長康
・竹中半兵衛
・一柳直末
・一柳直盛
長浜世代 其の一
秀吉が初めて城持ちになったのは長浜城主で、就任は天正元年(1573年)のこと。
城一つを任されたからには、より多くの軍役を課せられますので、家臣団の充足は急務となりました。
いわゆる「子飼い」武将の多くがこのタイミングで出仕しています。
・加藤清正(1562年生まれ)
母が秀吉の伯母だとされていて、数少ない身内でもあります。
父とは早くに死に別れたらしく、清正は母に連れられ、津島で刀鍛冶を営んでいた叔父の元へ行き、13歳までそこで育ったとか。

加藤清正/wikipediaより引用
そして天正二年(1574年)、長浜へ出向いて秀吉に仕えています。
ちなみに清正の初陣は天正九年(1581年)の鳥取城攻めだそうで。いきなり「飢え殺し」とは飛ばし過ぎというか、えげつないというか……。
・福島正則(1561年生まれ)
「幼少期から秀吉に仕えた」というのが定説で、詳細は不明。
天正十一年(1583年)賤ヶ岳の戦いで一番槍になっているため、この時期までには一隊を任されるくらいにはなっていたはずです。

福島正則/wikipediaより引用
正則が永禄(1561年)生まれであることを考えると、出仕時期は早くても1570年前後でしょうか。
父親の出自も不明ながら「大工だった」という説があります。少なくとも武士ではなさそうです。
・脇坂安治(1554年)生まれ
天文二十三年(1554年)、近江の浅井郡で生まれ、最初は明智光秀に仕えていました。
しかし永禄十二年(1569年)、黒井城攻めにおける働きぶりが秀吉の目に留まり、「安治を直臣にしたい!」と光秀に頼み込んだそうです。
割と図々しいお願いですが、この前年の永禄十一年(1568年)、秀吉は光秀や丹羽長秀と共に京都の統治に携わっていましたので、その縁から頼み事もしやすい関係ができていたのかもしれませんね。

脇坂安治/wikipediaより引用
実際に光秀がどう感じたのかは不明ですが……。
安治は天正四年(1576年)に150石を与えられており、永禄十二年〜天正四年までの間に秀吉へ仕えたと思われます。
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