豊臣家臣団

上段左から蜂須賀正勝・加藤清正・福島正則・下段左から脇坂安治・石田三成・生駒親正/wikipediaより引用

豊臣家 豊臣兄弟

豊臣家臣団はどのように形成されていったか?秀吉が必死になって集めた家臣たち

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豊臣家臣団
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長浜世代 其の二

他にも豊臣政権の終盤まで登場する武将の多くがこの長浜時代に仕え始めました。

ざっと出身地別にまとめるとこんな感じです。

※(  )内は出仕したとされる年

【近江】
・片桐且元(不明)
・石田三成(不明)

石田三成/wikipediaより引用

【三河】
・加藤嘉明(天正四年=1576年)

【尾張】
・平野長泰(天正七年=1579年)
・山内一豊(天正元年=1573年)

【出身地不明】
・大谷吉継(不明)

絵・富永商太

意外というべきかやはりというべきか、もともと武士の家に生まれた人ほど出仕時期も判明しており、そうではなかったと思われる三成や吉継の出仕時期は不明。

例外は片桐且元で、彼の父・片桐直貞は浅井家臣でしたが、且元が秀吉に仕えた時期が判然としません。

直貞は小谷落城の直前まで浅井家に留まっていたそうですので、攻め手の中心だったとされる秀吉に対しては複雑な感情があり、すぐに出仕したいとは思わなかったのかもしれませんね。

また、黒田官兵衛については、以下のような経緯があります。

・天正三年(1575年) 当時の主君である小寺政職の使者として信長に会った

・天正五年(1577年)10月 秀吉が官兵衛の居城である姫路城に入る

・天正七年(1579年)11月 官兵衛が荒木村重に幽閉されていた有岡城から救出される

秀吉に仕え始めた時期は、有岡城から助け出された天正七年と見るべきでしょうか。

◆長浜時代の出仕組

・加藤清正
・福島正則
・脇坂安治
・片桐且元
・石田三成
・加藤嘉明
・平野長泰
・山内一豊
・大谷吉継
・黒田官兵衛

 


時期不明&出自不明

多くの家臣を召し抱えた秀吉ですから、中には出自の記録が少ない人物もいます。

「賤ヶ岳の七本槍」に数えられる糟屋武則もその一人。

糟屋武則/wikipediaより引用

播磨生まれで三木城の別所長治に仕えていたとされるのですが、それ以外の出自や経歴がほとんど不明です。

他には小西行長も似たようなもので、わかっているのは父の名が隆佐(立佐)であることくらいです。

彼らは堺の薬種商小西家の人だともいわれますが、明確に血縁だといえるような記録がないのだそうで。

小西行長/Wikipediaより引用

◆詳細不明

・糟屋武則
・小西行長

 


秀吉生前に退場した人々

最後に【賤ヶ岳の戦い】で一番槍をつけたという人を見ておきましょう。

・石川一光(かずみつ)

柴田勝家軍に一番槍をつけたとされるのが、この石川一光です。

本来なら七本槍以上に称えられて然るべきですが、本人がその直後に討死してしまったため、現代ではあまり知られていませんね。

以下のように浮世絵の題材にはなっています。

石川一光(落合芳幾作)/wikipediaより引用

一番槍の戦功は大きなため、本人に代わって弟の石川頼明が1000石を与えられました。

なお、一光と頼明の父は美濃加賀島(鏡島)城主の石川家光です。

美濃石川氏については記録が少なく、混乱も見られるため、一光もまた出自と秀吉に仕え始めた時期は不明となっています。

・桜井家一

賤ヶ岳の戦いで一番槍を付けたのは二人とされ、もう一人がこの桜井家一です。

家一はその後、秀吉の弟・豊臣秀長に仕え、天正十九年(1591年)に秀長が亡くなると、今度は秀長の子・秀保に仕え、文禄四年(1595年)に秀保が死去。

そこで再び秀吉に仕えるのですが、その翌年の文禄五年(1596年)、今度は肝心の本人が亡くなってしまいます。

なんだか巡り合わせの悪い御方で……。

家一の出自は石川一光よりもさらに不明で「信濃に根を下ろした滋野氏から枝分かれした系統」とか「清和源氏・武田氏の庶流」などがありますが、確定的な史料はありません。

真田(信濃)や武田(甲斐)など山間エリアに縁があった可能性は感じさせますね。

【賤ヶ岳の七本槍】は、本当は【九本槍】だったという指摘があります。

当初は、石川一光と桜井家一の二人も一緒に讃えられていたのです。

しかし、一光は戦の中で討死しており、家一も秀吉の存命中に亡くなってしまい、そのまま七本槍にしてしまったのが現代まで続いている――。

2026年大河ドラマ『豊臣兄弟』あたりで修正してくれるかもしれません。

楽しみに待っておきましょう。


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長月 七紀・記

【参考】
菊地浩之『豊臣家臣団の系図』(→amazon
国史大辞典
日本人名大辞典
世界大百科事典
ほか

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