淀屋橋から出町柳まで特急が走っています。
銀閣寺、祇園、八坂神社、清水寺、さらには比叡山など京都の主要観光地には大変便利な鉄道なため観光客でいつも賑わい、途中、宇治川を渡ると、そこでこの特急が停車します。
駅名は「中書島」。
ナカショジマ???
いえいえ、「ちゅうしょじま」です。
なんとも珍しい名前で、由来は400年前の戦国末期にさかのぼります。
安土桃山時代の後半。
伏見城周辺に豊臣政権下の諸将が住居を構え、脇坂安治が住んだ屋敷が宇治川の島のような中州にありました。
このとき安治の役職は中務少輔(なかつかさしょうゆう・今で言う文部科学大臣ぐらい)でした。
中国名では同役職を【中書】と呼んだことから「脇坂中書さま」という別名が付き、屋敷の一帯を中書島(ちゅうしょじま)と呼ぶようになったのです。
脇坂安治(通称「脇坂陣内」)は【賤ヶ岳の七本槍】メンバーの一人でもあります。
【賤ヶ岳の七本槍】
加藤清正(1562-1611年)
福島正則(1561-1624年)
片桐且元(1556-1615年)
加藤嘉明(1563-1631年)
脇坂安治(1554-1626年)
平野長泰(1559-1628年)
糟屋武則(1562-不明)
賤ヶ岳の七本槍は、実は全部で9人だったなんて話もありますが、それはさておき、脇坂安治とはどんな武将だったか?
寛永3年(1626年)8月6日が命日となる、その生涯をまとめてみましょう。
※以下は賤ヶ岳の七本槍の関連マンガ記事となります
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近江に生まれた脇坂安治
脇坂安治は1554年生まれで、父は田付孫左衛門(たつけまござえもん)。
母は、田付景治(かげはる)の妹で、後に脇坂安明と再婚し、脇坂安治は跡継ぎとなりました。
脇坂家は近江(滋賀県)浅井郡の脇坂を本拠とした一族で、義父・脇坂安明のときに、姓を藤原から土地名の脇坂に変えたとも言われております。
脇坂安明は、地元の浅井氏に仕えておりました
しかし、織田信長との戦いで戦死したとされ、以降、あとを継いだ安治は織田家に仕えて明智光秀の与力となり、丹波攻略で活躍。
中でも1569年【黒井城の戦い】では初陣にして、赤井直正から「貂(てん)の皮の槍鞘(あるいは旗指物)」を貰ったという逸話が知られております。
赤井直正は「悪右衛門」や「丹波の赤鬼」という呼び名でも、現代の戦国ファンには有名な勇将ですね。
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光秀から秀吉の配下になり
そして、その後が運命の分かれ道となりました。
明智光秀から羽柴秀吉の配下になり、武功を重ねていくのです。
そうでなければ本能寺の変で非業な運命を迎えていた可能性もありましょう。
賤ヶ岳の戦いではめざましい活躍をして、脇坂安治は七本槍の一人として全国的な有名人となったわけです。
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このとき秀吉から山城(京都)に3千石を拝領。
さらに小牧・長久手の戦いでは、伊勢・伊賀方面で滝川一益勢と戦い、伊賀上野城(三重県伊賀市)を攻略、戦功を挙げて洲本(淡路島)3万石を拝領しております。
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この洲本以降、安治は水軍を指揮する将として戦に出ております。
水軍の同僚には、信長にも重用されたことで知られる九鬼嘉隆や、四国の王者・長宗我部元親、賤ヶ岳七本槍の一人・加藤嘉明などもおり、例えば九州征伐での脇坂安治は大友宗麟に兵糧を届け、小田原征伐では海上から伊豆下田城を攻め落とすという手柄を挙げています。
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【文禄・慶長の役】でも主に水軍として活躍し、幾度もの大きな海戦を経験しました。
日本よりも韓国の歴史ドラマで、この時の脇坂安治が大きくとりあげられております。
韓流ファにンはご存知かもしれません。そして……。
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