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【脇坂安治】
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関ヶ原での裏切りは最初から予定されていた
織田→豊臣政権の下で順調に出世した脇坂安治。
秀吉の死後はどうなったか?
というと、答えは「豊臣を見限って徳川についた」です。
これが第1の岐路でした。
徳川家康の会津征伐(上杉征伐)では息子の脇坂安元を参陣させようとして、石田三成らに妨害されます。
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関ヶ原では西軍で小早川秀秋の裏切りをおさえる位置にいたのですが、かねてからの手筈どおり東軍に味方し、大谷吉継軍らに襲いかかりました。
戦後は当初から東軍の味方として所領安堵となっています。
その後1609年に大洲(愛媛県大洲市)5万3千石を拝領。
1615年の大坂の陣では息子の脇坂安元が参戦しました。
前線で豊臣方と戦った記録があり、安治(陣内)はその年家督を安元に譲ると、京に移り住み、1626年に没しております。
子がいない=断絶? 逆手にとって生き延びる
脇坂家は徳川政権ではもちろん外様大名でした。
脇坂安治の息子・安元は、他の外様大名の消長を見て不安を覚えたのでしょうか。
自分に子がないことを逆に利用し、当時、老中でもあった徳川譜代大名の名門・堀田氏から養子を苦心してもらい受けます。
これが第2の岐路となりました。
脇坂家は以降、大洲→飯田(長野県)→龍野(兵庫県たつの市)と本拠をかえながら「願い譜代」(準譜代)大名→後に正式な譜代大名となり、明治維新まで続いたのです。
以下余談を二つほど。
足軽が持つ槍の鞘には、あの貂の皮がかぶせてあったそうで、庶民の間ではすぐに『あぁ、脇坂家だな』と噂していたとか。
司馬遼太郎短編集でユーモラスに記述されております。
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さらに、江戸時代元禄期の【赤穂浪士事件】に先立つ赤穂城の接収は、隣接する龍野藩の重要任務となりました。
藩主・脇坂安照の代のこと。
4,500の大軍で事に当たったという記録が残っています。
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忠臣蔵の前篇に登場しますので、作品にふれる機会がありましたら『あぁ、彼らは脇坂家の……』とご注目ください。
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【参考】
国史大辞典
峰岸純夫/片桐昭彦『戦国武将合戦事典』(→amazon)
戦国人名辞典編集委員会『戦国人名辞典』(→amazon)
谷口克広『織田信長家臣人名辞典』(→amazon)
脇坂安治/wikipedia