小山評定と上杉征伐

徳川家康と石田三成/wikipediaより引用

徳川家

上杉征伐と小山評定からの家康vs三成~関ヶ原が始まる直前に何が起きていた?

慶長五年(1600年)7月25日は徳川家康小山評定(おやまひょうじょう)を開いたとされる日です。

上杉征伐のため会津に向かっていた徳川軍に対し、上方で石田三成が挙兵。

これに対抗するため家康が小山(栃木県小山市)で開いた会議のことであり、まだこの時点で【関ヶ原の戦い】になるとは誰も知り得ません。

しかし家康は、豊臣系武将たちに対し、

「君たち、三成とオレ、どっちにつくの? 妻子を人質に取られてるなら向こうについてもいいけど、争いが終わったときどうなるか、わかるよね?」(超訳)

なんて調子で迫ったと知られています。

あまりに劇的な会議であり「創作であろう」という見方が根強いですが、日本を真っ二つに分けた大戦の前哨戦だけに、色々な思惑があったことは間違いないでしょう。

そこで本稿では、上杉征伐~小山評定という関ヶ原前夜の流れを見ていきたいと思います。

※以下は徳川家康の生涯まとめ記事となります

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上杉征伐の始まりは直江の手紙

秀吉が亡くなった後、五大老筆頭としてグイグイと存在感を増していった徳川家康。

当初は家康と仲違いしていたわけじゃない五奉行の石田三成も、

『このままでは徳川の世になってしまう……』

と、緊張感を高めていった最中のことでした。

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そんな中、東北では会津に勢力を有していた上杉家(上杉景勝)が、上洛の要請を無視するだけでなく、神指城(こうざしじょう)の整備や武器の搬入など、戦の準備にしか見えないことを開始。

さらには家康へ“果たし状”とも言える手紙を出しました。

直江兼続からの、いわゆる『直江状』です。

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直江状は、実在したの?と真偽が危ぶまれる一面もありますが、徳川との対決姿勢を鮮明にした上杉の出方については概ね正しく、実際に家康が激昂しているところから存在自体は間違いなさそうです。

かくして景勝&兼続に激怒した家康。

上方にいた大名たちを従え、大坂から会津へ、上杉征伐へ向かうことにしました。

現代の地図で見ると

大坂城~江戸城~神指城まで749kmという途方も無い距離です。

 


徳川軍に加わった豊臣系武将たち

大軍を率いて会津へ進軍しようとする徳川軍に対し、当然、周囲は右往左往です。

直江状を受け取った時点での家康は大坂にいますから、五奉行の増田長盛長束正家、あるいは「豊臣三中老」と呼ばれる中村一氏・生駒親正・堀尾吉晴らは必死になって徳川の挙兵をなだめようとします。

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しかし、もはや家康も止まりません。

上杉征伐に向け軍を整え、このとき付き従ったメンバーが後の小山会議で重要になってきます。

井伊直政本多忠勝榊原康政、酒井家次(酒井忠次の息子)といった徳川方の主力武将は当たり前として、豊臣系武将も数多く従うのです。

上杉征伐に参加した
豊臣系武将たち

浅野幸長
福島正則
田中吉政
池田輝政
堀尾忠氏
山内一豊
中村一忠
黒田長政
加藤嘉明
藤堂高虎
生駒一正
蜂須賀至鎮

福島正則は秀吉子飼いの代表として知られますし、その他のメンバーも当人あるいは父親の代から秀吉に付き従ったコテコテの豊臣派閥ですね。

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本来なら一丸となって秀吉の遺児・豊臣秀頼を盛り上げねばならない立場です。

しかし彼らの多くは三成一派に抑えきれない怒りを抱えており、この段階では家康についたのでした。

かくして慶長5年(1600年)6月16日、家康を総大将とした上杉討伐軍はついに大坂を出発します。

 


三成、動く

家康が大坂を発つと、佐和山城で謹慎生活を送っていた石田三成はにわかに動き始めました。

大谷吉継に声をかけ、共同での挙兵を促したのです。

吉継は「無謀な計画」だとして反対しますが、決意の固すぎる三成。

もはや止めることはできず、ついに両名は立ち上がり、大名の妻子を無理やり人質に取り「逆賊・家康を討つ!」と言い始めます。

三成らは毛利輝元宇喜多秀家らの西軍大物も引き込み、各地の大名へ打倒家康の檄文を飛ばしました。

大名の妻子の中には、三成に素直に従った者、こっそり逃げ出した者など色々いましたが、とりわけ有名なのが最後まで抵抗の末に自害したとされるのが細川ガラシャ細川忠興の正室)ですね。

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ちなみにガラシャは明智光秀の娘でもあります。

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戦国でも屈指の濃ゆい生涯を生きた人でした。そして……。

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