慶長十六年(1611年)6月17日は、尾張の戦国武将・堀尾吉晴が亡くなった日です。
中村一氏や生駒親正と共に「豊臣三中老」の一人に数えられるのですが、徳川家康などの「五大老」と石田三成らの「五奉行」があまりに目立つため、どうしても存在感が薄くなってしまいますよね。
しかし、彼らも戦国時代を生き抜き、秀吉のもとで出世しただけあって、決して能力は凡庸ではありません。
では一体、堀尾吉晴とはどんな武将だったのか?
その生涯を振り返ってみましょう。

堀尾吉晴/wikipediaより引用
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土豪から秀吉の部下へ
堀尾吉晴は天文十二年(1543年)、尾張国丹羽郡御供所村(愛知県丹羽郡大口町豊田)で土豪の家に生まれました。
名前を複数回変えていて、若い頃は「茂助」と名乗っていたようです。
戦国時代の尾張領主と言えば、織田信長ですね。
ご多分に漏れず吉晴も信長に士官。
16歳のときには岩倉勢との戦で首を挙げ、人々はその豪勇に驚いたとも伝えられています。
年代的にこの戦は永禄元年(1558年)【浮野の戦い】前後のことであり、信長は、まだまだ尾張制圧も達成してない時期のことでした。

若き日の織田信長/絵・富永商太
実は信長は、家督相続から尾張統一まで14年もかかっていて、
◆信長の尾張統一
天文21年(1552年)3月3日に父の織田信秀が死亡
↓
信長が家督を継ぐ
↓
主に親戚たちと尾張で勢力争い
↓
桶狭間の戦い(1560年)を生き抜く
↓
永禄8年(1565年)7月15日に織田信長が尾張統一
吉晴のように若くて勇猛な家臣は一人でも多く欲しい状態でした。
ただし、その後の数年、吉晴に際立った記録はございません。
天正元年(1573年)までには羽柴秀吉の配下となり、秀吉が長浜城主になった頃、同地に110石を与えられました。
子飼いではないけれど、秀吉家臣の中では古参勢といえるでしょう。

秀吉の主な家臣たち(上段左から蜂須賀正勝・加藤清正・福島正則・下段左から脇坂安治・石田三成・生駒親正/wikipediaより引用)
山崎・ 天王山の死闘で明智方の将を討ち取る
堀尾吉晴が恵まれていたのは、やはり子飼い同様、秀吉に気に入られた点でしょう。
出世のたび加増も重ねてゆき、長篠の戦いや中国攻めにも参加。
そして本能寺の変を経て勃発した秀吉vs光秀【山崎の戦い】では、
「天王山の奪い合いで鉄砲隊300人ほどで敵兵100人を討ち取り、そのままの勢いで山から駆け下り、文字通り敵を蹴散らす」
という大活躍をしています。なんとも痛快なお話ですね。

「山崎合戦之地」の石碑(天王山/京都府乙訓郡大山崎町)
そしてこのことが評価され、翌年、ついに若狭高浜で1万7000石の大名になると、若狭坂木で2万石、天正十三年(1585年)には近江佐和山4万石と、かなりの勢いで上り詰めていきます。
天正十八年(1590年)の小田原征伐では、羽柴秀次が担当した山中城攻めにも参戦。
ただし、城は未完成だった上に守兵も少なく、秀次の他に徳川家康もいたため、吉晴が功績を挙げる間もなく落城してしまいました。
小田原での戦中は吉晴にとって大きな不幸もありました。
長子の金助が戦病死してしまい、吉晴本人だけでなく、吉晴の妻が大いに悲しんだことが伝えられています。
金助の死の翌年と三十三回忌の法要の際に、彼女がかけ直したとされる裁断橋(名古屋市熱田区伝馬四丁目)があります。

堀尾跡公園に復元された裁断橋/wikipediaより引用
そして三十三回忌の際に作られた擬宝珠(ぎぼし)には、子を失った母の悲しみがひしひしと感じられる銘文が刻まれました。
それが以下の通り。
熱田宮裁談橋、右檀那意趣者、掘尾金助公、去天正十八年六月十八日、於相州小田原陣中逝去、其法名号、逸岩世俊禅定門也、慈母哀憐余、修造此橋以充卅三年忌普同供養之儀矣
てんしやう十八ねん二月十八日おだはらへの御ぢん、ほりをきん助と申す十八になりたる子をたゝせてより、又ふためとも見ざるかなしさのあまりに、いま此はしをかける事、はゝの身にはらくるいともなり、そくしんじやうぶつ給へ、いつがんせいしゆんと、後のよの又のちまで、此かきつけを見る人、念仏申給へや、卅三年のくやう也
銘文の原文からは子を失った母の嘆きがひしひしと伝わってきます。いつの時代も死別は辛いものですが、逆縁は特に際立つものですね……。
橋そのものは後世に架け替えられ、この銘文のためか、擬宝珠だけは今も名古屋市博物館に保管されています。
三中老に任じられる
小田原落城後、徳川家康が関東へ移封。
その後に入る形で吉晴は浜松城主となりました。

ライトアップされた浜松城
12万石への大出世ですが、同時に、いざというときは家康の進軍を止めなければならない立ち位置です。
加増のたびに全く違う場所へ移動したせいか。
堀尾吉晴はなかなか落ち着いて内政に取り組むことはできませんでしたが、秀吉からの扱いはかなり良いものでした。
俗に「三中老」と呼ばれ、五大老と五奉行の仲裁役を任されたのです。
「三中老」という名称が実在したかどうかは怪しいとされていますが、堀尾吉晴と中村一氏、生駒親正の三名がそうした役割を与えられていたことは間違いないのでしょう。

豊臣三中老(左から中村一氏・堀尾吉晴・生駒親正)/wikipediaより引用
吉晴が三中老になったのは慶長三年(1598年)のことで、秀吉が亡くなったのは同年8月です。
翌慶長四年(1599年)閏3月に前田利家が亡くなり、直後に石田三成襲撃事件が起きて三成が佐和山へ戻り、その後同年10月に吉晴が隠居して、その隠居料(越前府中5万石)は家康が与えた
……という流れになっています。
このとき吉晴は既に65歳ですので、引退には十分な年齢ですが、もしかすると、家康からこんな取引などを持ちかけられたかもしれません。
「吉晴の隠居料はきっちり用意するので、息子の堀尾忠氏をワシの味方につけさせてくれ」
関ヶ原の直前、徳川軍が会津へ向かうとき、吉晴・忠氏父子が浜松で家康を接待しています。
吉晴としてはまだまだ元気で、戦にもついていくつもりだったようです。
しかしさすがの家康も隠居した人間を会津まで連れて行くのは気が引けたのか、
「息子だけついてくればいい。吉晴は越前に戻れ」
として、忠氏だけが従軍することになりました。

堀尾忠氏/wikipediaより引用
この頃には前田家から利家の未亡人・まつが人質に出されていたのですが、予断を許さない状態と考え、北陸方面の抑えを吉晴にやってもらいたかったのかもしれません。
ところが……帰国の途についた吉晴に、とんでもないトラブルが降りかかります。
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